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 今日は礼拝後、教会定期総会が行なわれます。今年の年間聖句(案)は、コリントの信徒への手紙一10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えていてくださいます。」です。

 児島教会は大変小さな群れになっています。これも一つの試練だと思います。しかし、人数が多ければそれでいいというわけではありません。マタイによる福音書18章19、20節には次のように記されています。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」たとえ二人であったとしても、心を一つにして祈れば、その祈りを神さまは聞いてくださるのです。二人、三人が集まるところには、イエスさまはいてくださるのです。この小さな群れの中にイエスさまがいてくださる、ということほど心強いことはありません。私たちは、そのことをどれだけ意識しているでしょうか。教会の試練と同時に与えられている「逃れる道」とはイエスさまがいて共に歩いてくださるという道ではないかと思います。

 また、個人の試練にとって、聖書の言葉が支えとなることがあります。私自身キリスト教の道を歩むようになったのは、自分に起きた試練のおかげでした。聖書を読むようになり、心が次第に落ち着いていき、教会へと導かれました。今日の聖句もまた大きな支えとなりました。私にとっての「逃れる道」はキリスト教の道でした。また、教会もまた、私の「逃れる道」でした。

私たちが試練に遭う時、必ずそこには神さまが「逃れる道」を備えてくださっています。だから、思い詰める必要はないのです。教会は私たちの「逃れる道」であるだけでなく、一般の人々にも開かれた逃れる道であると思います。教会は、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12・15)共同体です。教会に来る人の中には、悩みを抱えてやってくる人もいると思います。最初はその人を見守り、やがてその人の悩みが明らかになったとしたら、共に泣き、共に悩む者になりたいと思います。そして、その人が悩みから抜け出せたら、共に喜ぶ者になりたいと思います。

 神さまは、私たちに耐えられない試練を与えられません。試練が与えられた時、その試練のただ中に「逃れる道」を必ず与えて下さいます。その神さまを信じて、自分に与えられている試練は耐えられるものであると信じながらも、必ず備えられている「逃れの道」を歩んでいくと共に、信仰の歩みをも進めていく者でありたいと思います。

                 2022年4月24日 復活節第2主日礼拝 平島禎子牧師


 イースターおめでとうございます。

 イースターに合わせて、鳥取教会報が届きました。昨年12月に橋原正彦牧師が召天され、その後木谷実牧師(児島教会歴代牧師ご子息、現湖山教会牧師)が代務をされています。教会報1面に「必ず」という題で、復活の力強いメッセージが記載されていました。

 ~キリストの復活は「必ず」という確信を持って伝えられた。これは願望や予測ではない。「必ず」と力強く断言されている事実である。~

 力強いメッセージに、鳥取教会の復活を信じる事ができました。

 今日の聖書は有名なトマスの記述です。復活から1週間経って、ようやく彼は復活を信じることができたのです。いったい他の弟子たちと何が違っていたのでしょうか。実はそんな違いはなかったように思います。

 他の弟子たちも、マグダラのマリアの復活の証言を聞いても、すぐに信じることはできず、ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていたのです。そこに現れられたイエスさまを見て、復活を信じることができたのです。つまり彼らは、聞いても信じることができず、見たから信じたのです。トマスと同じです。大切なのは、信じない者になってしまうのではなく、信じる者になることです。それにはやっぱりイエスさまの言葉を思い起こすことが大切だと思います。生前には理解不能だった、十字架と復活についてのイエスさまの言葉が、彼らを、そして私たちを、信じる者に変えてくれるのだと思います。

 12日(火)に岡明孝さん(岡多美恵姉のお連れ合い)が召天されました。人間的には、いろいろとあれもこれもと思いが沸き上がりますが、次第に、やはりこれも神さまの御業であり、すべては定められていたことなのだと思えるようになりました。きっとこのことも、何らかの「復活」につながるのではないかと思います。

 自分自身の小さな心に支配され、神の偉大な業を見失わない者になりたいと思います。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたイエスさまの言葉を、自分への励ましの言葉として受け止め、新たな希望を持って、さらなる歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

2022年4月17日 イースター礼拝 笹井健匡牧師


 最後の晩餐の後、イエスさまと弟子たちはオリーブ山のゲツセマネという所に来ました。ゲツセマネというのは「油を搾る場所」という意味です。隠喩的に、その場でイエスさまの苦悩の汗が搾るようにしたたるという意味があるのではないのかと思います。

 イエスさまはペトロ、ヤコブ、ヨハネをご自分のそば近くに置かれ、ひどく恐れてもだえ始め、彼らに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れずに目を覚ましていなさい。」と言われました。(33、34節) もし、イエスさまが神の子であるので、平然と自分の運命を受け入れ、苦しまれなかったとしたら、本当の意味での救いにはならなかったでしょう。イエスさまが、肉体的にも心的にも、私たちと同じところまで下りて来られたからこそ、真の救いの道が開かれていったのではないかと思います。

 イエスさまは、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」とまず祈られました。(36節前半) この「杯」とは、裏切られ、辱められ、暴力を受けた挙句の十字架の死を意味しています。そのような「杯」を自分から取りのけて欲しいとイエスさまは切に祈られたのです。それに続けて、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36節後半)と祈られました。イエスさまは人間として、これから起こることから逃れることもできたはずです。「最後の誘惑」という映画がありましたが、ナザレに帰り、大工の仕事をし、家庭を持つ、ということもできたかもしれません。また、エルサレムから去り、ガリラヤやその他の地方で宣教活動をされ、神の国の実現をなすことができたかもしれません。しかし、イエスさまは自分の意志をではなく、神さまの意志を求め、それを実現しようと思われたのです。この祈りは命がけの祈りでありました。ルカによる福音書22章44節には、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されています。イエスさまは、全身全霊をこめて、激しい苦しみの中で最後の祈りを祈られたのです。

 私たち一人一人、苦しみの中にある時、イエスさまが苦しみの中で、最後の祈りをされたことを思い起こし、神の前にひれ伏し祈るということをなす時、苦しみの中で最後の祈りをされ、十字架にかかって死なれたイエスさまが、後ろから私を包んでくださり、神さまへの執り成しをなしてくださるということを覚える者でありたいと思います。

 来週はイースターを迎えます。十字架上で死なれたイエスさまが甦られた嬉しい日です。しかし、イースターまでの1週間、受難週の歩みは、イエスさまの十字架に思いを寄せる歩みをなすべきです。十字架なしに復活はありません。イエスさまの受難を知り、心に刻み、痛み、悲しむ者でありたいと思います。洗足木曜日、受苦日である金曜日を特に覚えて過ごす者でありたいと思います。そして、私たち一人一人も自分に与えられている十字架を背負い、イエスさまについていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

    2022年4月10日 棕櫚の主日(受難節第6、復活前第1主日) 平島禎子牧師


 桜が咲きました。満開になりました。教会の花壇等の花々も美しく咲き誇り、特にチューリップも全開です。寒く厳しい冬の後には、必ず暖かい、うららかな春が来てくれます。何と感謝なことでしょうか。

 2022年度のスタートです。麗しい喜び溢れる言葉でスタートしたいところですが、現実はなかなかそれをゆるしてくれません。

 私たちは現実のこの世を生きる存在です。あの世のことばかり言っていては、この世から出て行かなくてはいけません。しかし、あまりにもこの世に固執しすぎると、この世の悪しき現実の中に「生き埋め」になってしまいます。

 今日の聖書にも、上にあるものを求め、心を留めるように勧められています。

具体的には、神の右の座に着いておられるイエス・キリストに心を向けることです。今、受難週を歩んでいますが、イエスさまがその尊い命を差し出されてまで、私たちを愛してくださったことを、心に強く想起しましょう。その私たちが身に着けるべきことが、少し先の12節に記されています。現実が大変なときであっても、いや大変なときだからこそ、愛を身に着け、忍び合い、赦し合うことが大切だと思います。人の心が傷つき、叫び、ささくれ立って、憎み合う、そういうときだからこそ、私たちはイエスさまにならって、愛と平和が心を充たすようにしたいと思います。

 疫病、戦争と来ると、さらにさまざまな不安が頭をよぎりますが、そういうときこそ、信仰の出番です。大変な現実に翻弄され、言わば心を下げてしまうのではなく、そんなときこそ信仰をもって心を上げ、しっかりとイエスさまを見つめて生きる者でありたいと思います。

 受難週も後2週間です。愛の為、受難の道を歩まれるイエスさまは、今も私たちの傍らに立ち、心の戸をノックしておられます。厳しい現実に心折れそうになり、うずくまりそうになっている私たちを、大きな愛をもって、立ち上がらせてくださいます。そのイエスさまに、心に入ってもらいましょう。そうすることによって心を上げましょう。そしてイースターの日を、復活の喜びの日をしっかりと見据えながら、新しい年度の歩みをすすめて行きましょう。

 

2022年4月3日受難節第5(復活前第2)主日礼拝 笹井健匡牧師