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「最後の祈り」 マルコによる福音書14章32~42節

 最後の晩餐の後、イエスさまと弟子たちはオリーブ山のゲツセマネという所に来ました。ゲツセマネというのは「油を搾る場所」という意味です。隠喩的に、その場でイエスさまの苦悩の汗が搾るようにしたたるという意味があるのではないのかと思います。

 イエスさまはペトロ、ヤコブ、ヨハネをご自分のそば近くに置かれ、ひどく恐れてもだえ始め、彼らに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れずに目を覚ましていなさい。」と言われました。(33、34節) もし、イエスさまが神の子であるので、平然と自分の運命を受け入れ、苦しまれなかったとしたら、本当の意味での救いにはならなかったでしょう。イエスさまが、肉体的にも心的にも、私たちと同じところまで下りて来られたからこそ、真の救いの道が開かれていったのではないかと思います。

 イエスさまは、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」とまず祈られました。(36節前半) この「杯」とは、裏切られ、辱められ、暴力を受けた挙句の十字架の死を意味しています。そのような「杯」を自分から取りのけて欲しいとイエスさまは切に祈られたのです。それに続けて、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36節後半)と祈られました。イエスさまは人間として、これから起こることから逃れることもできたはずです。「最後の誘惑」という映画がありましたが、ナザレに帰り、大工の仕事をし、家庭を持つ、ということもできたかもしれません。また、エルサレムから去り、ガリラヤやその他の地方で宣教活動をされ、神の国の実現をなすことができたかもしれません。しかし、イエスさまは自分の意志をではなく、神さまの意志を求め、それを実現しようと思われたのです。この祈りは命がけの祈りでありました。ルカによる福音書22章44節には、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されています。イエスさまは、全身全霊をこめて、激しい苦しみの中で最後の祈りを祈られたのです。

 私たち一人一人、苦しみの中にある時、イエスさまが苦しみの中で、最後の祈りをされたことを思い起こし、神の前にひれ伏し祈るということをなす時、苦しみの中で最後の祈りをされ、十字架にかかって死なれたイエスさまが、後ろから私を包んでくださり、神さまへの執り成しをなしてくださるということを覚える者でありたいと思います。

 来週はイースターを迎えます。十字架上で死なれたイエスさまが甦られた嬉しい日です。しかし、イースターまでの1週間、受難週の歩みは、イエスさまの十字架に思いを寄せる歩みをなすべきです。十字架なしに復活はありません。イエスさまの受難を知り、心に刻み、痛み、悲しむ者でありたいと思います。洗足木曜日、受苦日である金曜日を特に覚えて過ごす者でありたいと思います。そして、私たち一人一人も自分に与えられている十字架を背負い、イエスさまについていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

    2022年4月10日 棕櫚の主日(受難節第6、復活前第1主日) 平島禎子牧師


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