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 2019年度は、年間聖句「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)、信仰目標「隣人を愛し、互いに支え合おう」を掲げて歩んで来ました。完全に出来た、とは言えませんが、少しはそれぞれ自分なりに達成できたのではないかと思います。
 年度の終わりには、新型コロナの問題が大きくクローズアップしてきましたが、これも見方を変えれば人類全体に、愛がためされているのかも知れません。
 今日の聖書は、「キリスト教的生活の規範」という仰々しい見出しがつけられていますが、前半は、愛について記しています。悪ではなく善に、そして偽りないことがまず述べられます。そして互いに愛し合うこと、しかも相手を優れた者と思い、尊敬することが続きます。
 注目すべきは「聖なる者」つまり、伝道の中心にいた人々、エルサレム教会に連なる人々もそうですが、そうした人々が貧しかった、ということです。現代のキリスト教会とは、残念ながら真逆です。初期のキリスト教会の特徴の一つは、中心的な人々が、貧しかったということです。それが各地の教会の愛を、大きく引き出すことになり、教会の愛が成長していったのだと思います。
 さらに驚くべきことは、迫害する者に祝福を祈る、という教えです。これは現代でもなかなか困難なことがらです。…中略…。
 そして最後に、共に喜び、共に泣くことが勧められているのです。つまり共感することが、私たちが愛するとき、最も重要なことなのかも知れません。
 今、全世界で苦しんでいる人たちが多く存在します。そうであるならば、神の愛に生きる私たちは、共に苦しむことをなすべきなのかも知れません。
 将来のことは、私たち限りある存在の人間には、なかなか分かりません。しかし、信仰によって神が愛であることを知らされた私たちは、このような時代、社会だからこそ、共に苦しみ、しかしその先には必ず神さまが備えられている救いがあるということを信じて、共に歩んで行きたいと思います。

2020年3月22日 受難節第4主日礼拝     笹井健匡牧師

 今、私たち人類は、かつて経験したことのない危機に直面しています。人口は世界ですでに75億人とも言われ、やがて80億人になると言われています。
そしてその多くの人々が地球規模で移動することができるようになり、人も物も金も、世界中がつながっている状態です。以前なら、地域的な危機で済んだものが、今や全世界の危機になるわけです。
 また海の魚はじめ多くの生物が、人間がつくりだしたプラスチックごみによって、大変な状況にあります。また山では住むところを奪われた動物たちが人里に降りて来て、これも大きな問題となっています。
 創世記1章では、天地創造のとき、神は人に地球のことを「よろしく頼む」と言われたのだと、私は思っています。しかし現状は人と人が争い、その結果他の生命をも脅かす結果になっているように思われます。
 今日の聖書で、パウロは、被造物全体が苦しんでいることを書いています。まことの、つまり自分たちを救ってくれる神の子たちの現れるのを待ち望んでいる、というのです。そして私たち信仰者は、今の苦しい状況を、神の子とされる希望をもって待ち望んでいるというのです。
 そこに忍耐がいる、とパウロは言っているように思います。しかしパウロが言う忍耐とは、顔をゆがめて、苦しみをこらえて、というのとは少し違うのではないか、と私は思います。
 玄関ホールに掲げられているとおり、「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝」して生きて行くのです。笑門来福ではないですが、笑顔で生きていくのです。なぜなら私たちには希望が与えられているからです。だから今の現実がたとえどんなに厳しいものであったとしても、あきらめずに、忍耐して待つことができるのです。
 これから世界がなすべきことは、神の愛を知り、地球への愛を深くし、そこから、人類を含めた全被造物が幸せに生きていけるように、知恵を出し合い、協力していくことだと思います。神さまが私たち人類の歩みを愛のゆえに忍耐して見守って下さっていることを信じます。私たちもその愛に応えて、やがて救いは訪れるという希望を持って、その時を忍耐して待つ者でありたいと思います。

2020年3月15日 受難節第3主日礼拝     笹井健匡牧師

 私たちすべての人は、今という時を生きています。それは過去の生きて来た時の積み重ね、延長線上にある今です。そして私たちの前には未来が待っています。それはだれにもわからない、不確定な時です。しかし今どう生きるのかによって未来はいかようにもなるのではないかと私自身は思っています。
 今日の聖書は、イエスさまが群衆に言われた言葉です。直前のところまでで、イエスさまは弟子たちに対して厳しい言葉を語られています。そして今日のところでは、群衆に対しても厳しさが感じられる言葉を用いておられます。
 12章のはじめに、ファリサイ派の偽善に気をつけるように言われたイエスさまですが、ここでは、群衆に対して「偽善者よ」と言われるのです。イエスさまは、人々が経験から多くのことを学んで来て、「天気」の変化の予兆をも知っていることを指摘された後、今という時、今がどんな時なのかなぜ知らないのかと言われるのです。「偽善者よ」という言葉と重ね合わせると、「…知らないのか」という言葉の後に、「いや実は知っている、知っているはずだ」という言葉が、無言のうちに続いているようにも思います。
 本当は知っているのに、心の深いところでは分かっているのに、知らないふりをする、あるいは知ろうとしない、その態度、現実を直視しないその在り方に対して「偽善者」という厳しい言葉を投げかけられたのかも知れません。
 イエスさまの登場に、当時の人々は戸惑い、困惑し、今いったい何が起きているのだろう、と思ったのかも知れません。そしていろんな人に意見を聞いて回ったりしたのかも知れません。57節には、「何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われています。あの人が言ったから、この人が言うから、と人の判断に従っていると、自分は無責任でいられます。楽なのです。
 私たちは、イエスさまのことを自分で判断しなければいけません。というより、自分で救い主と信じて、信仰を告白して、クリスチャンとして生きています。そうであるなら、今という時がいったいどんな時であるのか、このことについても神さまに祈りながら、聖書に聴きながら、やはり自分で判断しなければいけないと思います。
 神さまから、そしてイエスさまから自由を与えられている私たちは、たとえどんなに大変であっても、困難な状況であっても、信仰をもって今と向かい合い、そして必ず道は開かれることを信じて歩んで行きたいと思います。

2020年3月8日 受難節第2主日礼拝      笹井健匡牧師

 受難節最初の日曜日を迎えました。今年は社会全体が受難節のようになっています。何とか4月12日(日)にはイースターを喜んで迎えたいと願います。
 今年は、イエスさまの受難の道を、イエスさまが読まれたであろう、イザヤ書の「主の僕」からみてみたいと思います。ざっと主要な部分を挙げると以下のようになります。
 主の僕の召命   42章1~9節
 主の僕の使命   49章1~9節
 主の僕の忍耐   50章4~11節
 主の僕の苦難と死 52章13節~53章12節
 私たちがよく知っているのは、最後の53章です。イエスさまの十字架の受難を思わされます。しかし、最後の11節12節には、最終的な勝利、主の僕自身の喜びが記されているように、私は思います。
 今日の聖書は、一見、受難とは、かけ離れた感じを受けます。神さまが選び、喜び迎える者、と記されています。しかし直前の41章27~29節をみると、神さまの目に適う者が一人もいない、ということが記されています。そして、今日の聖書の中でも、特に有名な、傷ついた葦を折らず、暗くなる灯心を消さないという言葉から、この選ばれた「主の僕」は、それまでの旧約の力強いリーダーたちとは一線を画しているように思われます。
 神さまは、地上を見渡しても、遣わすことができる存在を見つけることができなかったため、ついに、御子イエスをこの世に送る決断をされたのかも知れません。そしてそれは神さまご自身にとっても、喜びでもあるけれども、痛みでもあったのではないかと思わされます。
 実際にイエスさまが歩まれた道は、受難の道でした。そしてそれははじめから決められていた、あるいは想定されていた道だったのだろうと思います。
 私たちは、そのような深く優しい愛に満ち溢れたイエスさまに救われたのです。神さまはそのことによって、愛を示されました。
 イエスさまの受難の道が、神の愛から出ていることを、それほどまでに私たち人間を愛してくださっていることを忘れずに、このレントの時を歩んで行きたいと思います。

2020年3月1日 受難節第1主日礼拝      笹井健匡牧師

 今週の水曜日、26日は、灰の水曜日です。4月11日(土)まで受難節(レント)に入ります。毎年それぞれ工夫されて、克己の生活を送っておられることと思います。
 イエスさまの受難と十字架への歩み、それを神の御心として受け入れ、人間としての弱さに打ち勝たれながら一日一日歩みをすすめて行かれる、そのイエスさまのことを覚えて、私たちも少しでも自らの弱さに打ち勝って行く歩みをして行きたいと思います。
 さまざまな弱さを持つ私たち人間ですが、今回私は子どもの頃のことを思い出しました。悪いことをした時、親から、「こっちをちゃんと見て、本当のことを言え」というようなことを言われた記憶があります。後ろめたいことがあると、親の顔を見ることが出来なかったのだと思います。
 悔い改めというのは、方向を変える、神の方に向き直ることです。そうすると克己のはじめにまず悔い改めをしなければならないのかも知れません。
 今日の聖書は、イエスさまの非常に厳しい言葉が並んでいます。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムはいずれもガリラヤ湖北岸の町です。コラジン、ベトサイダに対しては、ティルス、シドンという町が言及されていますが、カファルナウムに対してはありません。しかしマタイ福音書を見ると、あのソドムが言及されています。神から大きな罰を受けた町々の名前を出すことで、今のガリラヤ湖北岸の町々の在りようを厳しく批判されたのだと思われます。
 では、何が問題だったのでしょうか。背景には当時、イスラエルが植民地であり、ローマの文化、すなわちギリシャ的な文化、建築等が入って来て、ユダヤの宗教、文化が危機的状況にさらされていた、ということがあると思います。特にカファルナウムは比較的大きな町であり、そこにはギリシャ様式の巨大な建築物がそびえたっていたのだと思います。
 ヤハウェの神を忘れ、あるいはないがしろにして、この世の栄に心を奪われている人々に対して、神に立ち帰るように、イエスさまは言われたのだと思います。
 私たちも様々なこの世の栄華に心を奪われることが多い者ですが、レントの時、もう一度、しっかりと自らの心を見つめなおし、心をまっすぐに神さまの方へ向け、そして十字架への道を歩んで行かれるイエスさまのことをしっかりと見つめながら、克己の歩みを為して行く者でありたいと思います。

2020年2月23日 降誕節第9主日礼拝     笹井健匡牧師

 平良修牧師はNHKの番組の中で、「最も小さい者」について、マタイ福音書25章31節以下の有名なところを引用して語られました。私には、2千年前、この世で小さくされている人々、しいたげられている人々へのイエスさまの思いと、沖縄を思う平良さんの思いが重なって聞こえました。
 今日の聖書は、イエスさまが2回目の受難予告をされた後、弟子たちの間で巻き起こった議論を記しています。そしてその「だれがいちばん偉いか」への回答としてイエスさまは「最も小さい者」と言われたのです。
 私たちは多かれ少なかれ将来への夢や希望、目標をもって人生を歩んで来ました。自分のことを振り返っても、そこにはやはり、「偉くなりたい」という思いがあったように思います。たとえそれが純粋で、「きれい」な思いから出たものであったとしても、どこかに「いちばん」になりたいという思いがあったかも知れません。そしてそれは、生物学的な進化にとっては必要なものなのかも知れません。
 しかしイエスさまはここで、つまり自らの受難を予告された後で、反対に傲慢の方向に向かっている弟子たちに対して、対極的な存在である子どもを示され、いちばん偉い、と言われたのです。18章15節以下では「乳飲み子」が、さらに22章24節以下では「若い者」「仕える者」のようになれと言われました。マタイ福音書では「心を入れ替えて」「自分を低くして」子どものようになるべきことをあからさまに語っておられます。
 先ほど生物学的な進化にとって必要かも、と申し上げましたが、しかし言わばこの向上心のようなものは、行き過ぎると破滅への道をたどってしまいます。そうではなく、互いに「神」を恐れ、相手を受け入れ合うとき、そして最も小さい者が最も偉い者である、ということができるとき、人類は新しい世界を築くことができるのかも知れません。
 それは私たちクリスチャンにとっては、とりもなおさず救い主であるイエスさまの御心に生きる、ということになるのだと思います。
 複雑で、混迷を極める現代にあって、しかしその中でも私たちの目指すべき先を照らすイエスさまのみ言葉として「最も小さい者」を受け入れ、自らもそれを目指し、そうした人々で世界が満ち溢れるようになることを真剣に祈りながら信仰の道を共に歩んで行きたいと思います。

2020年2月16日 降誕節第8主日礼拝   笹井健匡牧師

 私たちは、ふだん多くの物に囲まれて生活しています。必要な物も、もちろんありますが、なかにはあってもなくてもいいもの、さらにいらないものまでもが私の周りを取り囲んでいる、そんな気がします。
 しかし少し引いて地球規模で考えてみると、その多くのものは、人間が様々な資源を利用して造り出したものです。ゼロから生み出したものはありません。つまり、もともとあった地球の一部が姿を変えただけ、ということが言えるかも知れません。
 今日の聖書は、弟子たちを派遣するにあたり、イエスさまが言われた言葉を記しています。3つの共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の中で、一番シンプルに記されています。
 基本は、何も持たない、ということです。しかし注意して見ると、1節には「力と権能」が授けられています。弟子たちは、通常、人間がする旅支度はしていないのですが、イエスさまから「力と権能」を与えられているのです。人間的な必需品はゼロですが、福音を宣べ伝えるために必要なもの、つまり神由来のものは、ちゃんと与えられているのです。
 私たちはたくさんの物を持っている方が安心し、安全で快適な生活が送れると思っていますが、それはそんなに確かなものではありません。
 一番確かなものは、神さまです。そしてイエスさまの言葉です。イエスさまが言われるなら、その言葉に信頼し、従っていく歩みをなしたいと思います。しかし、現実は、なかなかそうは簡単に行きません。いろいろと考える事、配慮すること、等がたくさんあるからです。
 そんな私たちですが、今日の聖書にあるように、神さまの御用をさせていただくときには、人間的なものは、必ずしも必要ではなく、最も必要なのは、それがイエスさまの言葉であるなら、丸腰でも、何も持たない状態でも、せよ、と言われることに従って行く者でありたいと思います。何も持たないように見えても、一人ひとり神さまから賜物を与えられています。その賜物をこそ生かして、主の御用に励んで行く者でありたいと思います。

2020年2月9日 降誕節第7主日礼拝      笹井健匡牧師

説教題「信仰は、どこに」     聖書 ルカによる福音書8章22~25節

 私たちは、ふだん何気なく、自分はキリスト教の信者である、と思いながら生きているかも知れません。しかし、信仰というのは、なかなかむつかしいものです。ある、と思った次の瞬間には、不信仰になってしまっているのが、私たちの現状ではないかと思います。しかし、またそこから神さまの方に向き直って、信じる、そして、また、と信仰と不信仰を繰り返して生きているように思います。
 それは、信仰が、神さまから与えられたものであるからなのかも知れません。ときどき、いや、よく忘れるのです。しかしそんな私たちのことは、神さまは初めからよくご存知です。大切なのは、忘れても、また思い出し、神さまのところへ帰るということを、最後まで繰り返して生きて行くことだと思います。
 今日の聖書は、大変有名な個所です。特に児島教会では、受付に「絵」がかけられていますので、無意識にいつも心のどこかにあり、深く根を下ろしているかも知れません。私自身は、今は「奇跡」にとらわれなくなりました。気にならなくなった、ということです。それよりもなぜこんな経験を弟子たちはして、そしてイエスさまから厳しい言葉をいただいたのか、ということに心が惹かれます。
 「突風」「荒波」は、もしかしたら弟子たちの心理状態を表しているのかも知れません。イエスさまは基本的にはイスラエル中心に活動されましたが、時折、その周辺地域へ行かれています。今回はガリラヤ湖の向こう岸です。そこはつまり、異邦人の地なのです。当時イスラエルの民は異邦人と交際していませんでした。訪問もしていなかったのです。だから弟子たちは、これから先のことを考えて、不安になり、心が穏やかではありませんでした。そういう弟子たちに対してイエスさまは、信仰は、どこに、と問われたのです。
 神さまの業を成就するため、宣教活動をされていたイエスさま。そして、そのイエスさまから召し出され、弟子となり、共に行動していた、従っていた弟子たちでした。神を信じ、神に従う者には、おそれるものなど、何もない、とイエスさまは言われたかったのかも知れません。さらに、あなたたちの信仰は、本来、神さまから与えられたものであり、「どんなことがあっても」あなたたちの内にちゃんとある、と言われたかったのかも知れません。
 風前の灯火のようになることも多い私たちの信仰ですが、今日のイエスさまの言葉は、逆説的に私たちの中には信仰はあり続ける、と言って下さっているように私には思えます。もちろん感謝のみすべきことで、傲慢は無しですが。

2020年2月2日 降誕節第6主日礼拝      笹井健匡牧師

 私たち人間の多くは、幸せを望み、不幸をできるだけ遠ざけて生きている存在です。しかし、現実の人生では、なかなか思うようにいかないのも、また現実です。イエスさまの時代の人々はどうだったのでしょうか。少なくとも聖書を読む限り、日々の暮らしが相当大変だったのは間違いないようです。そんな中イエスさまは誕生し、人々の前に登場されたのです。
 今日の聖書は、マタイ福音書の「山上の説教」に対して、平地、平野の説教と呼ばれているところです。17節に、山からおり、平らな所に移動されたことが記されています。
 23節までの前半は、マタイの山上の説教と通じる内容ですが、後半はマタイにはありません。おそらくマリアの賛歌に始まるルカの福音書に特徴的な要素がこの24節以下の後半をセットにしたのではないかと思われます。
 イエスさまは、弟子たちに言われた、と20節にありますが、弟子たちの後ろには、イスラエルとその周辺地域からやって来ていた大勢の民衆がいたのです。
貧しく、日々の生活に困窮し、また病に苦しんでいただろうと思われます。そんな人々に対してイエスさまは、前半の「幸い」という言葉を投げかけられたのです。人間的に見れば、悲惨な状況に見える、そういう現実を生きている人々に対して、いやそんな中救いを求めてイエスさまのところへやって来た人々に対して、「幸いだ」と言われたのだと思います。厳しい現実の中にあっても希望を捨てず、こうして今、イエスさまのところに来ている、そんな神への信仰をもって貧しくとも誠実に懸命に生きていた人々に対して「幸い」と言われたのです。
 それに対して、後半の言葉は、実際にはそこにいない、多くの富んでいる人々に対して語られた言葉のように私には思われました。神のことは二の次で、日々の生活において、贅沢に、笑って、楽しく暮らしている人々に対して、今享受している「幸せ」と思っているものは、表面的なものであり、その本質は「不幸だ」とイエスさまは言われたのです。イエスさまは、人の心の奥深くを見つめて、この一連の言葉を言われたのだと思います。
 最初に言いましたように、私たちも「幸せ」を求めて生きる者ですが、大切なのは、そこに神さまに対する信仰、信頼があるかどうか、そしてもっと言えば、神さまと隣人に対する愛があるかどうか、ではないかと思います。たとえ貧しくとも神さまの愛に生かされ、イエスさまに従って、隣人を愛して生きて行くならば、その人生は真の幸せな人生ではないかと、私は思います。

2020年1月26日 降誕節第5主日礼拝     笹井健匡牧師

 新しい年を迎え、みなさんはどのように過ごして来られたでしょうか。いろいろありますが、こうして今ここに礼拝をささげることができている、なんと幸せなことでしょう。
 新年を迎えると、毎年、少しは初心に帰るものです。そしてちょうど降誕節にあたりますので、どうしてもイエスさまの最初の頃の宣教に心が惹かれます。
 今日の聖書は、その中でも特に心をとらえられる個所の一つです。イエスさまが人前でなされた最初のいやしの場面ですが、そのこと自体よりも、22、27節の人々の驚きに注目してしまいます。自分自身が「会堂で語る」立場にあるからかも知れません。イエスさまは、「律法学者のようにではなく」語られました。そしてそれは、「権威ある新しい教え」でした。
 もちろん、一牧師にしか過ぎない私自身は、イエスさまのように語ることはできません。しかし、だからと言って「律法学者」のように語るのでは、それは神さまの御心ではないと思います。どう語ればいいのか、いつも悩ましい課題です。
 実際には神さまから示された聖書の個所から、聖霊に導かれて語る、というのが理想というか、きれいな答えですが、なかなかそうは行きません。それどころか、へたをすると、自分の思いばかり語ってしまっている、単なる人間の言葉、また律法学者の言葉になってしまっていることもしばしばだと思います。それでも、神さまを信じて、聖霊の導きを信じて語り続けるしかありません。
 そんな中で、一つ思うのは、その言葉が「古い言葉」「古い教え」になってしまっていないだろうか、ということです。繰り返しとりあげる聖書の個所であっても、そこに、そのときに与えられた新しい教えが少しでもあるのか、と思わされます。今日の聖書で示されたのは、イエスさまは汚れた霊を追い出す、というものすごい業をされたのですが、人々は、「教え」の方により関心を示し、そしてこれは今までにない、「新しい教え」だと言ったという点です。
 私たちもともすれば「いやし」「奇跡」等のものすごい業に心を奪われがちですが、一番大切なのはイエスさまの「新しい教え」であるということを覚えていたいと思います。そしてイエスさまに救われた者として、少しでもそのイエスさまの新しい教えに従って、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2020年1月19日 降誕節第4主日礼拝   笹井健匡牧師

 まだ新しい年が始まったばかりだというのに、世界は不穏な空気に包まれているように思います。しかし、私たちは、私たちのために誕生してくださった救い主であるイエスさまに、しっかりと心を向けて歩んで行きたいと思います。
 今日の聖書は、聖霊に満たされ、信仰厚いシメオンと、女預言者アンナという二人の高齢の信仰者がイエスと出会う場面です。舞台はエルサレム神殿です。
 シメオンは聖霊から、メシアに会うまでは死なないとのお告げを受けていました。聖霊に導かれ、神殿の境内に入って来たとき、ちょうど、いけにえを献げるためにイエスを連れて来たマリアとヨセフに出会いました。そしてこの幼子こそメシアであることを、直前の29~32節で、喜びにあふれ、神をほめたたえて話します。
 今日の聖書の33節には、マリアとヨセフの驚きが記されています。しかし、シメオンはさらに驚くべきことを34節以下で語るのです。しかも、マリアに対して語りました。「反対を受けるしるし」とかマリアも「剣で心を刺し貫かれます」と言います。最初、すばらしい言葉を聴いたかと思うと、すぐそれに続けて大変厳しい言葉を聴いたのです。どんな思いでこのシメオンの言葉を受け止めたのでしょうか。
 続いて、若い時7年の結婚生活を送りましたが、死別し、以降おそらく60年ほども神殿に仕えていた女預言者のアンナが近づいて来ます。
 預言者ヨエル以降、300年以上も預言者が現れない時代をイスラエルの民は過ごしていましたが、それは民全体を導くような「偉大な」預言者のことを言っているのです。このアンナのような預言者、おそらく神殿等にいて、神の言葉を語り、時には個人的な相談等も受けていた、そういう預言者は常に存在していたのではないかと思います。そんな預言者であるアンナが、内容は分かりませんが、幼子イエスのことを、救いを待ち望んでいた人々に語ったのです。はっきりとは分かりませんが、おそらくシメオンの語った内容と、近い内容ではなかったかと思います。
 マリアとヨセフの反応は記されていませんが、おそらく再び驚いたことでしょう。二人の人生の大先輩、偉大な信仰者からイエスについて聴いたのです。
 私たちも、この先どんなことがあろうとも、このイエスさまに救われた者として、神さまを信じ、イエスさまの教えに従って、歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2020年1月12日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

 新しい年、2020年の最初の主日礼拝を迎えました。1日(水)新年礼拝でお会いしていない方々には、新年おめでとうございます、です。新しい年も共に神さまの導きを信じて困難を乗り越え、上を向いて歩いて行きたいと思います。
 迷いましたが、ヨハネの黙示録を取り上げさせていただきました。「黙示録」が書かれた時代は、迫害が強く、もはや通常の表現方法をとることができない時代でした。それで迫害者には分からないように、自分たち仲間内、つまりクリスチャンの間でだけ分かるように考えて書かれたのです。
 しかし、そんな中にあっても、今日の聖書には、はっきりとした、そして大変力強い希望が描かれています。エゼキエル書の37章27節前後の影響を受けながら、信仰の友たちに、希望を持ち続けて歩むならば、必ずや新しい時がやってくる、と励ましているのです。
 「新しい天」や「新しいエルサレム」についてはよく分かりませんが、3節以下の、神さまが共にいて下さって、死も、悲しみも、嘆きも、労苦もない世界というのはなんとなく分かるような気がします。中心は、「神、共にいます」ということです。マタイの誕生物語にある「インマヌエル」(神は我々と共におられる)です。救い主イエスさまの誕生の時に、すでに約束されていた「共なる神」が、この地上で完全に実現する、というのです。
 パウロの手紙はじめ、いろいろな書簡が書かれた時代、そしてその後、福音書が書かれた時代には、まだ通常の表現で、日常の言葉で福音を語り合うことができたのです。書物にすることができたのです。しかし、この「黙示録」の時代には、それすらできない、大変厳しい時代でした。「検閲」をかいくぐって書かれたと言えると思います。キリスト教は、そんな大変な時代を生き抜いて、今日まで伝えられたのです。もちろん、そこには負の遺産もありましたが。
 この後、時代がどのようになっていくかは、知る由もありませんが、イエスさまを迎えて、そしてそのイエスさまを信じ、従う者として、どんなことが起ころうとも決して希望を捨てずに、神さまが必ずや私たちに新しい地を示して下さる、与えて下さる、そして共にいて涙をぬぐい取って下さる、そのことを信じて、この2020年も互いに祈り合い、助け合い、励まし合いながら、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2020年1月5日 降誕節第2主日礼拝 笹井健匡牧師

 今年、2019年もいろいろなことがありました。2018年に三宅八重子姉、難波玉恵姉、さらに藤岡友幸牧師を天に送り、悲しみの中、1月をなんとか過ごせた、と思っていました。しかし、2月に田中稔子姉が倒れられ、その後入院、施設、また入院という大変な日々が続きました。他にも高齢の姉妹兄弟は、いろいろ体調をくずされたり、入院されたりを繰り返しました。また、手術をされ、現在も平川英勝兄は入院をされ、リハビリをされています。
 この世的に見るならば、悲観的になってしまうような一年でしたが、クリスマスの準備や、訪問に多くの方々が加わられ、児島教会の、主にある交わりがさらに深められた一年であったようにも思います。互いの不足を補い合いながら、主の教会の御用に、少しは誠実に歩めたのかも知れません。
 今日の聖書は「公現日」、1月6日の聖書の個所です。イエスさまが誕生されてから2週間が経っています。馬小屋に誕生されたイエスさまは、おそらく近くの「家」に移動することができたのではないかと思います。そしてヨセフは登録のためにやらなければいけないことや、赤ちゃんイエスさまに必要なもののために忙しくしていたのかも知れません。「博士」たちは、母マリアと共にいる、赤ちゃんイエスに会いまみえることができ、拝み、宝を献げました。星の導きもあり、彼らは並々ならぬ思いを与えられたのではないかと思います。そして夢のお告げによって、別の道を通って帰って行ったのです。
 ユダヤ人の王に会いに来た彼らは、おそらく、それ以上の存在、何かははっきりとは分からないが、天的な存在を、赤ちゃんイエスさまに感じたのではないかと私は思います。彼らはイエスさまに出会ったことによって、もはやそれまでの彼らではなく、新しい人間になったのではないか、そして新しい人間には新しい道が必要だったのです。
 私たち人間は王的な存在を欲する傾向があります。イスラエルの民も預言者サムエルに王を求めました。現代でも、王のいない多くの国には「大統領」がいます。イギリスではなんとテレビで、エリザベス女王がクリスマスメッセージを発信します。そしてそれを人々は楽しみにしているのです。牧師(司祭)の話よりいいのでしょう。
 「博士」たちがこの世の王ではなく、真の天的存在の王に出会って新しくされ、新しい道を歩むようになったように、クリスマスを迎えた私たちも、またそれぞれに新しい道を歩んで行きたいと思います。イエスさまを心に抱いて…。
2019年12月29日 降誕節第1主日礼拝    笹井健匡牧師

 クリスマスおめでとうございます!
 今年は、例年とは違い、静かに、忍耐をもって過ごしたアドベントのときを思い起こします。ここにもきっと神さまの深い意志があることと信じ、そのことを受け入れつつ、今日は、心から主イエスのご降誕を喜びたいと思います。
 今日の聖書の個所は、大変有名で、クリスマスに最も多く取り上げられるところだと思います。特に7節の「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」なぜなら「宿屋には」「場所」がなかったというのです。ここからイエスさまが馬小屋で誕生された、というクリスマスのメインストーリーが誕生します。そして、馬小屋だったからこそ、羊飼いたちは何の障壁もなく、救い主イエスさまの誕生を目の当たりにすることができたのではないかと思わされます。
 救い主であるイエスさまは、なんと馬小屋で誕生されたのです。しかも飼い葉桶に寝かされたのです。これが私たちが、そして世界の多くの人々が信じている救い主の誕生の場なのです。
 しかし、すこし大きな歴史的視野で見ると、もうひとつ大変重要なことが分かります。それは、2節にあるように、「最初の住民登録」のときに、イエスさまは誕生された、ということです。植民地支配をしていたローマの勅令によって「登録」が義務付けられたのです。イスラエルの民の、言わば「総背番号制」です。ひとつは、税金を厳しく徴収するために、そしてもうひとつは将来兵役を課すためです。イスラエルの民にとっては屈辱的で、いやなものでしたが、従わなければ生きていけない現実がありました。そんな、いよいよ厳しい状況に置かれたイスラエルに、救い主であるイエスさまは誕生されたのです。
 現代も、私たちをとりまく状況は大変憂慮する状況と言えるかも知れません。最初に申し上げましたように、特に今年は、アドベントがまるでレントのように、私は感じていました。「内憂外患」という言葉がありますが、「内患外憂」という言葉がぴったりするような日々でした。しかしそんな状況だからこそ、同じように、いやもっと厳しい状況下でお生まれになった私たちの救い主である、イエスさまの誕生は、本当に心からの喜びであり、何よりの希望の光であります。
 私たちそれぞれの生活の場、働きの場を思いながら、2千年前のイエスさまの誕生の場に思いをいたし、そこからこそ真の救い、喜びを今年もみんなでいただき、主のご降誕を心からお祝いしたいと思います。

2019年12月22日 クリスマス礼拝 笹井健匡牧師

 アドベントも第3主日を迎えました。イエスさまを迎える用意はすすんでおられるでしょうか。そういう私自身、今年はどうも心がざわついているというか、波風が立っているというか、そんな感じでなかなかクリスマスへと集中して行くことができずにいました。…。
 パウロの手紙が書かれた時代は、まだエルサレムが崩壊する以前でした。しかし福音書、特に最後に書かれたヨハネによる福音書は、時代もずっと後ですし、地域もおそらくエルサレムからはかなり離れた、どこかギリシャ語を話すクリスチャンの多く存在していた地域だと考えられます。
 つまり、大変困難な状況に置かれていた中で、ギリシャ語を話すクリスチャンたちが、自分たちにとってのイエスさまはこういう方だった、との思いから書き記されたのがこのヨハネによる福音書だと思います。
 今日の聖書の初めの16節は大変有名な個所です。クリスマスのメッセージとしても私自身もよく語って来ました。…。しかし今年はその後の方、「光」について心が留まりました。先週、偶然、昭和のスターと言われた方が永眠されました。また美しい「コールドムーン」を見ることができました。イエスさまは1章4節にあるように、「人間を照らす光」としてこの世に来られました。しかも神さまは「裁く」ためではなく「救う」ためにイエスさまを送って下さったにもかかわらず、人々は光ではなく闇を選んだ、というのです。
 私たちには多かれ少なかれ、隠し事があります。それが「ばれる」のを恐れて生きています。この私たちの心の在り方が、恐れ、が神さまに背を向け、この世の闇の方へと近づいてしまうのかも知れません。他者に対しては、人間に対してはどうしても言えなくても、神さまにだけは真実を語る者でありたいと思います。すでに神さまはすべてをご存知ですから、実は隠してもしょうがないのです。そうではなく、偽りのない自分のありのままの姿を、思いを、神さまに申し上げるとき、心を開いてすべてを打ち明けるとき、神さまは私たちを抱きしめ、すべてを赦し、大きな愛で包んで下さるのです。そのために、神の救いの印として、救いの光としてイエスさまは誕生されました。
 私たちはすべての恐れを捨て、すべてを神さまにおゆだねし、心を全開にして、このアドベントのときを最後まで歩み切り、そして今年も救い主として誕生してくださる、そのイエスさまの光の方へ歩んで行きたいと思います。

2019年12月15日 アドベントⅢ礼拝 笹井健匡牧師     

 アドベント第2主日を迎えました。今日は、母マリアが天使の言葉を受け入れるところから、あらためてクリスマスの備えをしたいと思います。
 有名な個所で、受胎告知として、絵画等で一般の人々にもよく知られている場面です。しかし私たちは信仰者として、信仰者の大先輩として、母マリアをとらえてみたいと今年は思わされました。
 ガリラヤのナザレという、都エルサレムから遠く離れた地方の小さな寒村に住んでいた少女にとって、自分に天使が現れること自体、大変な驚きだったに違いありません。しかも、その御告げの内容が、おそろしく、とんでもない内容だったのです。まるで大事件にでも巻き込まれたような状況に、マリアは置かれたと言ってもいいと思います。
 そんなマリアが親類のエリサベトのことを示され、さらに神にできないことは何一つないのだとの天使の言葉を受けて、まず「わたしは主のはしため(しもべという言葉の女性形)です。」と答えています。自分が神のしもべである、という、端的な信仰告白がなされているのです。難しいことは分からないけれども自分はヤハウェの神を信じる、一人の信仰者である、との自覚がマリアの口から発せられていることは注目に値します。心から、神を信じる者だったからこそ、彼女は最終的に、このおどろくべき告知を受け入れることができたのだと思います。
 もう一つは、その告知が「この身に成りますように。」と言ったことです。他のだれかではなく、この自分の上に、神の業が起こるようにと答えたのです。
 私たちはいろいろなことを祈ります。………。しかし、自分の上に、神の業が起こるように、と心から祈っているでしょうか。他者のためのとりなしの祈りは何よりも大事です。しかしまずその祈っている主体である自分自身の上に神のご計画が、御言葉どおりに起こるように、と祈ることも同時に大事なことであることを、このマリアの言葉から教えられます。
 クリスマスというのは、神さまの最大の業であるということができるかも知れません。どんなに小さくても、ここにいます私たち一人ひとりにも、神さまのご計画があります。
 自らの上に、神さまの業が、神さまのお言葉どおりになるように、祈りながらこのアドベントのときを、クリスマスに備えて歩んで行きたいと思います。

2019年12月8日 アドベントⅡ礼拝 笹井健匡牧師

 アドベントに入りました。アドベントクランツにロウソクの明かりが一つともされました。ロウソクの明かりを見ていると、不思議と自分自身の内面を振り返る様になります。アドベントのこのとき、一人ひとりがイエスさまを迎え入れる準備を、心を整えて行きたいと思います。
 今日の聖書は12章14節、13章1節にあるように、3度目の訪問をする前に書かれた手紙です。パウロにとってはコリントの教会は、愛すべき時別な存在でした。だからこそ、今日の個所の最後の10節で言っているように、コリントの教会の信徒たちと喜びをもって再会したいのです。苦言や厳しいことは先に済ませておきたいのです。
 具体的な問題もいろいろあったとは思いますが、今日の聖書の最初の5節にある、信仰者として生きているかどうか「反省」「吟味」すること、この一言に尽きると思います。なかなか難しいことですが、アドベントだからこそ、私たちも自分自身を内省、自省したいものです。
 イエスさまは少し文脈が違いますが、マルコ7章で、人の心の中からこそ、悪いものが出てくる、と言われました。残念ながら私たちの心の中には悪いものがうじょうじょいる、それが現実かも知れません。さらに言うなら、創世記8章の最後で、神さまは、あのノアの洪水の後、人に対し大地を呪うことは二度としない、それは人が心に思うことは、幼いときから悪いからだと言われました。
絶望的な気持ちになってしまいますが、しかし、だからこそ、主イエスがこの世に来られたのです。そんな私たち人間を救うために。
パウロはイエス・キリストが私たちの内におられる、と言うのです。どんなに失格者と見えようとも、そんな私たちの内に、イエスさまが居て下さることによって、私たちは神さまの方を向いて、生きることができるのです。
日本的な考え方かも知れませんが、最高で、最強のイエスさまによって、内なる諸悪を粉砕、浄化していただき、少しでも、神さまが喜ばれる人間として生きて行きたいと思います。たとえその歩みがどんなに稚拙であっても、遅いものであっても、最後までイエスさまと共に歩みたいと思います。
 アドベントのこのとき、私たちの心に、今年もイエスさまを宿すことができるように、内在するものとなってくださるように、自分自身をしっかりと見つめながら、一歩一歩歩んで行く者でありたいと思います。

2019年12月1日 アドベントⅠ礼拝      笹井健匡牧師

 今日は収穫感謝日です。逃れの地、ミディアンでのモーセの生活は、はっきりとしたことは分かりませんが、おそらく家族にも恵まれ、また多くの収穫に感謝する、幸せなものだっただろうと思います。
 しかしそんなモーセに3章で神が顕現され、驚くべき使命を授けられるのです。ですがモーセは、自分はそんな器ではない、と断り続けます。おそらくこのミディアンの地で、これからもひっそりと幸せに暮らして行きたかったと思われます。せっかく安住の地を得たのに、それなのに、なぜ?それがモーセの気持ちだったのではないでしょうか。
 今日の聖書でも、モーセは神さまからの使命を断り続けます。ついに神さまは怒りを発して(14節)、兄アロンをモーセに示されました。実際の出エジプトは、姉ミリアム、兄アロン、そしてモーセの3人が核となってなされました。
 モーセは、とにかく自分は語るのがへただと、言いつづけています。しかし、モーセ5書最後の申命記を見ればあきらかですが、最後には非常に雄弁に多くのことを語る人間になっています。神さまは表面的なモーセを見ておられたのではありません。また「語る」ということは、他の表現することと同様、神さまが共におられて、初めて人は心からのことばを発することができるのかも知れません。
 人間はなかなか本当の私を知ることができないのかも知れません。いくら鏡を見ても、自分の中の深いところまでは分からないものです。
 また、子どもの頃の私、若い頃の私、高齢になってからの私、それらは必ずしも一致しません。いや大きく変わる人も多いのではないか、と思います。
 モーセは、独特の出自のために、おそらく相当屈折した精神的成長の過程を経なければなりませんでした。2章で、エジプト人を殺してしまったのも、寡黙な性格だったから、いきなり暴力に訴えた、と見ることもできるかも知れません。しかし、最後には大変雄弁な人になりました。それは信仰の賜物だったのかも知れません。
 私たちも、それぞれに神さまから大切な使命を与えられ、教会の救いにあずからせていただいた存在だと思います。神さまを信じ、信仰の歩みを続けて行くとき、自分でも知らなかった本当の私に出会うことができるのかも知れません。
 それぞれに神さまから与えられた賜物を生かし、本当の私を一番よく知っておられる神さまを信じて、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。
2019年11月24日 降誕前第5主日礼拝     笹井健匡牧師

11月17日は野外礼拝のため説教要旨はお休みです。

 先週は私たちの信仰の先達たちを覚えて、多くのご遺族と共に礼拝をささげることができ、本当に感謝でした。特に出石洋子姉と一緒に礼拝をできたのは、赴任以来の祈りが聞かれた思いがして、心がいっぱいいっぱいになってしまいました。……。
 今日の聖書は「外なる人」と「内なる人」という印象深いたとえが用いられ、そのコントラストが鮮明に記されています。これを「肉体」と「魂」というように言うことは簡単ですが、パウロにとってはもっと大切な意味、思いがあったのではないかと思います。「内なる人」は他の手紙でも用いられています。
 信仰者も人間です。その意味では地上での有限な命を持った動物であります。そこからいろいろな誘惑や悪しき思いも出て来ます。そういう部分をパウロは「外なる人」と表現しているのだと思います。しかしパウロにとっての信仰者は、それだけではなく「内なる人」を内在させている、と言っているように思います。そしてそれは日々新たにされていく、というのです。
 限界を持った肉体は、やがて衰えて最後は死を迎えますが、しかし「内なる人」はどんどん新しくなっていく、つまり「衰え」とは逆に「若く」なっていく、というのです。
 イエスさまは、福音書において、幼子のようにならなければ神の国に入ることができない、と言われました。また地上での生を終えた後、天に挙げられた私たちは「天使」のような存在になる、とも言われました。つまり「内なる人」がどんどん若くなり、幼子のように、神さまのことを無条件に、完全に受け入れるようになっていく、と。だから神さまに対して心を開き、すべてをゆだねることができるようになることが、私たち信仰者の目標なのかも知れません。
 信仰の歩みというのは、聖書を読み、祈ることによって、日々新たにされていく歩みなのかも知れません。ときどき、どうしてこの人はこんなに社会的地位もあり、力もあるのに、こんなに柔和なのだろう、と思う高齢の信仰者に出会って来ました。確かにあの人たちは「内なる人」が、その信仰によって、日々新たにされていっておられたのだなあ、と今になって思います。
 聖徒の日を終えた私たちも、また新たな思いで、日々新たにされて行くことを、そしてその延長線上に天の御国があることを覚えて、新しく歩み出して行く者でありたいと思います。 

2019年11月10日 降誕前第7主日礼拝     笹井健匡牧師

説教題「語り継ぐ信仰」          聖書:詩編71篇18~19節

 今年は初めて、歴代牧師の遺影を真ん中に置いてこの記念礼拝をささげることになりました。…。
 私は藤岡友幸牧師とは、残念ながら生前お会いすることがありませんでした。しかし不思議なことに、今治教会とこの児島教会で共通の信徒の方々と出会うことになりました。昨年のクリスマスに召天され、前夜式、告別式と倉敷教会で行われました。ご遺族の皆様のご希望により、児島教会のお墓にも分骨をしたいと申し出て下さり、3月21日に納骨式を行いました。
 生前私が勝手に思い浮かべていたイメージとは全然違う方でした。本来ならもっともっとこの児島教会におられたかったのではないか、と思います。しかし今から考えてみれば今治教会で、私の知っているだけでも3人の牧師を生み出されました。人間的に見れば火中の栗を拾うような今治教会への赴任でしたが、多くの幼稚園児にも囲まれ、青少年にも囲まれ、神さまの備えは火中の中にもあったと言えるように思います。
 ここにいます私たちの多くは、それぞれに長い人生の旅路を歩んで来ました。フォークソングの一節に「今はまだまだ人生を語らず」というのがあります。
今日の聖書の詩人は、老いを感じ始めて来た信仰者だと思われます。9節にも老いに言及しています。この信仰者は、直前の17節を見れば、熱心に神さまのことを語り伝えて来たようです。そして今日の個所では、年老いても、なお神さまのことを、その力強い御業を語り伝えさせてください、と祈るのです。
 先日85歳になる父に会いに京都の実家に行って来ました。6年前に母を亡くした父は、元気なときの半分くらいの体重しかなく、足腰、目等もだいぶ弱っていますが、それでも語っておきたいことがあるらしく、いろいろと、時に為になることを語ってくれました。
 私たちは、来るべき世代、次の世代に、何を語り継いでいくのでしょうか。そろそろ本気で考えないと、と思わされました。言葉でなくても、脊中で、生き様で語り継ぐ、ということもあると思います。また行動で語り継ぐ、ということもあると思います。
 藤岡友幸牧師が生涯をかけて、イエスさまのことを語り、そして次の世代に、信仰を継いで生きられたように、私たちも、それぞれにできるかたちで、イエスさまへの信仰を語り継ぐ者でありたいと思います。

2019年11月3日 聖徒の日・召天者記念礼拝  笹井健匡牧師

 今日で聖霊降臨節が終わります。次週からは降誕前となります。聖霊の導きをどれだけ感じて歩めたか、自分自身を振り返って、そして喜びの日、クリスマスまでの降誕前にすすんで行きたいと思います。
 塩田で栄えた歴史を持つ児島の方々はもちろんですが、専売公社の時代があったことからも分かるように、塩は大変貴重で大切なものでした。多くの、他の動物は岩(岩塩のように塩分を多く含む)をなめたりして今でも塩を摂取します。人間は塩を取り出すこと、さらには生み出す?ことに成功し、食品コーナーにはいろいろな塩が陳列されているのが現状です。
 しかし塩害という言葉があるように、マイナスの面も併せ持っています。海に車で行った後などは、錆びるからよく洗車することが昔はありました。また最近のニュースでも台風などによる被害が多く報告されています。
 しかし、今日の聖書を見ると分かりますが、塩は本来、畑、肥料として古代から重宝されていたことが分かります。その濃度や使用法がいろいろとあるのだと思いますが、聞くところによると現代でも、それは同じだそうです。
 マタイによる福音書5:13以下には、有名な「地の塩、世の光」の言葉が記されています。イエスさまは私たちに対して「地の塩」たれ!と言われているのです。今日の聖書だけでは分かりにくいですがマルコによる福音書9:49以下を見ると神さまは私たち信仰者に塩味をつけられていることが分かります。自分では気づかなくても周りの人たちから見れば、それが分かるのかも知れません。信仰者らしさ、と言い換えることができるかも知れません。もちろん、私たちは信仰をもっているからと言っても、何か特別すごい人間なのではありません。しかし、他の人から見れば、どこか少し違う、何かちょっとでもキラっと光るものをもっているのが信仰者なのかも知れません。
 イエスさまに出会うことができ、自らの救い主として信じる事ができた、真の主なる存在をもっている、というところが、私たちの「強み」(塩味:えんみ)なのかも知れません。
 不透明なことの多いこの時代の中にあって、神さまからいただいた「塩味」を大切にしながら、主イエスを信じて、地の塩として、最後の最後まで生き抜く者でありたいと思います。

2019年10月20日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師

10月27日は都合により説教要旨はお休みです。