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「日々新たに」 コリントの信徒への手紙二4章16~18節

 先週は私たちの信仰の先達たちを覚えて、多くのご遺族と共に礼拝をささげることができ、本当に感謝でした。特に出石洋子姉と一緒に礼拝をできたのは、赴任以来の祈りが聞かれた思いがして、心がいっぱいいっぱいになってしまいました。……。
 今日の聖書は「外なる人」と「内なる人」という印象深いたとえが用いられ、そのコントラストが鮮明に記されています。これを「肉体」と「魂」というように言うことは簡単ですが、パウロにとってはもっと大切な意味、思いがあったのではないかと思います。「内なる人」は他の手紙でも用いられています。
 信仰者も人間です。その意味では地上での有限な命を持った動物であります。そこからいろいろな誘惑や悪しき思いも出て来ます。そういう部分をパウロは「外なる人」と表現しているのだと思います。しかしパウロにとっての信仰者は、それだけではなく「内なる人」を内在させている、と言っているように思います。そしてそれは日々新たにされていく、というのです。
 限界を持った肉体は、やがて衰えて最後は死を迎えますが、しかし「内なる人」はどんどん新しくなっていく、つまり「衰え」とは逆に「若く」なっていく、というのです。
 イエスさまは、福音書において、幼子のようにならなければ神の国に入ることができない、と言われました。また地上での生を終えた後、天に挙げられた私たちは「天使」のような存在になる、とも言われました。つまり「内なる人」がどんどん若くなり、幼子のように、神さまのことを無条件に、完全に受け入れるようになっていく、と。だから神さまに対して心を開き、すべてをゆだねることができるようになることが、私たち信仰者の目標なのかも知れません。
 信仰の歩みというのは、聖書を読み、祈ることによって、日々新たにされていく歩みなのかも知れません。ときどき、どうしてこの人はこんなに社会的地位もあり、力もあるのに、こんなに柔和なのだろう、と思う高齢の信仰者に出会って来ました。確かにあの人たちは「内なる人」が、その信仰によって、日々新たにされていっておられたのだなあ、と今になって思います。
 聖徒の日を終えた私たちも、また新たな思いで、日々新たにされて行くことを、そしてその延長線上に天の御国があることを覚えて、新しく歩み出して行く者でありたいと思います。 

2019年11月10日 降誕前第7主日礼拝     笹井健匡牧師

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