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 五旬祭(ユダヤ教の収穫祭)の日に、イエスの弟子たち一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。そして、炎のような舌が別れ別れに現われ、一人一人の上にとどまると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したのです。使徒言行録1章8節には、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」とイエスさまの言葉が、記されています。そのイエスさまが約束された聖霊が一同の上に降ったのです。「炎のような舌が別れ別れに現われ一人一人の上にとどまった。」というのは、炎が聖霊を表し、舌が言語を表しています。聖霊を一人一人がそれぞれに受け、語る力を与えられたということを意味しているのだと思います。聖霊は、共同体を包むように降ったのではなく、そこにいた一人一人の上に、個別に降ったのです。その聖霊を受けた一人一人によって、新しい共同体が生まれたのであろうと思います。

 そこにいたすべての人たち(祭りのためにエルサレムに帰ってきたディアスポラ(離散)のユダヤ人たち)が、それぞれ住んでいる地域の原語で、神の偉大な業を聞くとはどういうことだ、と言いました。そして、「皆、ガリラヤの人ではないか。」と言いました。ガリラヤというのは異邦の地(イザヤ書8章23節)であり、当時のユダヤ社会では差別をされていた地域でした。しかし、ナザレのイエスに従った多くのガリラヤの人たちが、それぞれに聖霊に満たされ語るということができたのです。人間の力ではおよばない出来事、「聖霊の力」による出来事が起きたのです。

しかし、「あの人たちは新しい酒に酔っているのだ」言ってあざけっている者たちもいた、と13節に記されています。しかし、あざけられようとも、聖霊に満ちた弟子たちには、何の影響もありませんでした。それどころか、14節以下において、ペトロが十一人と共に立ち上がり、説教をしたのです。そして、それを聞いた人たちの約3千人の人たちが仲間に加わった(41節)のでした。

 今から約2000年前のペンテコステの日に、地上にいる人々に初めて聖霊が降るという出来事が起きました。そして、聖霊に満たされた人たちによって、イエスが私たちの主であると告白され、イエスを通して神を信じる共同体が生まれたのです。そして、これらの人たちは、他の人たちからあざけられようとも、また、迫害を受けようとも、人を恐れず、イエスを証して生きていくことができたのです。それは「聖霊の力」によってなされたことでありました。

 このペンテコステの日、ここにいます私たちの上に聖霊が降りますように。教会が聖霊に満たされますように。「聖霊の力」によって、この教会が、わたしたちが、新しい歩みを始めていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

  2023年5月28日 ペンテコステ礼拝 聖霊降臨節第1主日 平島禎子牧師


 復活節最後の日曜日となりました。マタイはマルコに従って復活を記した後、番兵たちの逸話を記し、今日のところの、いわゆる「世界宣教命令」をもって、福音書を閉じます。

 通常は、世界宣教がメインテーマとされますが、ここにはもう一つ、マタイの信仰の核である、インマヌエル信仰が表明されています。

イエス誕生のとき、神我らと共にいます(1:23)ことを記したマタイは、福音書を閉じるにあたって、今度は復活の主イエスが「いつも…共にいる」ことを記しました。

 マタイにとって復活の主イエスは、全知全能の神から「天と地の一切の権能を授かっている」存在です。この福音書を読んでいた、あるいは聞いていた当時のクリスチャンたちは、迫害もあった、大変厳しい状況を生きていました。そんな信仰の友に向かって、マタイは、大丈夫、主がいつも共におられる、だから何があっても大丈夫だ、と励ましたのだと思います。

 今を生きるわたしたちも、内容は違いますが、大変厳しい状況にあると言えるかも知れません。宗教そのものの在り方が、いろんな方向から問われていると言えます。次の世代、若い人々が教会に来ない状況の中で、将来に対する不安や心配に心がふさぎがちです。

 こんな時だからこそ、わたしたちはもう一度インマヌエル信仰を自らのものとしたいと思います。「復活の主イエス、我らと共にいます」。どんなときも、復活の主イエスはわたしたちと共にいて下さいます。主が共にいて下さるなら、何も恐れるものはありません。わたしたちはただ、イエスさまと共に、神さまのご用をなしていくのみです。

 時に、御手で支え、また二人三脚で歩かれ、あるいはおんぶされ、いつもは暖かいまなざしで見守ってくださり、しかし時として、脊中で厳しさを示される主イエスと共に、これからも信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

   2023年5月21日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書には、百人隊長の僕の癒しが記されています。百人隊長の部下が病気で死にかけていました。百人隊長は、イエスのことを聞き、ユダヤ人の長老たちをイエスのところまで使いにやりました。ユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の人たち)は、交際をしないのが普通でした。ユダヤ人からすると、異邦人は汚れた存在であったからです。しかし、この百人隊長が住んでいたところでは、百人隊長とユダヤ人は豊かな交わりがなされていたと伺えます。百人隊長は改宗者にはならずとも、ユダヤ教を信じ、ユダヤ人に好意的な人物であったと思います。しかし、百人隊長は、自分が異邦人であったため、イエスのところに行く資格がないと思っており、ユダヤ人のしかも長老たちに使いを頼んだのです。この長老たちは、イエスに「熱心に」願いました。百人隊長がいかにユダヤ人のことを思い、ユダヤ教を重んじているのか、ということが伺えるとともに、百人隊長はユダヤ人を愛し、会堂まで建ててくれるということをなしたのです。(5節) その百人隊長の部下が死にかかっているから助けてほしいと、長老たちはイエスに願ったのです。

 そのことを聞かれたイエスは、長老たちと一緒に出かけられました。すると、百人隊長の家から遠からぬところまで来た時、今度は、百人隊長の友達が使いとしてやって来たのです。

 軍人である百人隊長は、権威ある命令をよく知っていました。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えばそのとおりにします。」と8節に記されています。百人隊長は権威の力を知る者として、イエスの権威が神からのものであることを信じ、イエスの言葉によって、僕は癒されると完全に信じていたのです。

 イエスは、この言葉を聞いて深く感心されました。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われました。異邦人である百人隊長の信仰の強さ、イエスの権威に対する信頼を、イエスは感心され、褒められたのです。そして、イエスは、その場に行かずともその僕を癒される、遠隔治癒をされたのです。

 7節の「ひと言おっしゃってください」と訳されている言葉は、口語訳聖書と協会訳聖書では、「ただ、お言葉をください。」と訳されています。こちらの方がいいと思います。「言葉」への重みというのが異なってくるのではないかと思います。百人隊長は、イエスの権威が神からのものであり、そのイエスの言葉は神の言葉であると信じました。イエスの言葉の力は神に由来するもので、その言葉の力を百人隊長は信じたのです。

 どんなに大変な状況にあっても、イエスの御言葉によって、私たちは救われるのです。イエスの神に由来する権威を知り、イエスの言葉は必ずなるのだと信じ、「御言葉を下さい」と言うことが大切であろうと思います。私たち一人一人、その人生の中で大変な時、また、自分以外の人が大変な時、「御言葉を下さい」と言う者でありたいと思います。そして、与えられる言葉が必ず私たちを救うものであるということを信じる者でありたいと思います。

    2023年5月14日 復活節第6主日 平島禎子牧師


 1日(月)~3日(水)まで休暇をいただいて、平島禎子師の実家に帰ることができました。2日(火)には平島禎子師の父の誕生日を祝うこともでき、感謝な休暇でした。

 私たちはそれぞれ人生の歩みの中で、さまざまな人と出会います。その中でも「友」と呼べる人との出会いは格別で、大変ありがたい存在です。

 今日の聖書は、印象的な「ぶどうの木」のたとえを受けて、結論として「互いに愛し合いなさい」という「掟」「命令」が与えられます。どのように愛するのかというと、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われるのです。イエスさまは、イエスさまの方から、わたしたちの友となって下さいました。だから私たちにも、自らすすんで、自分の方から友となりなさいと言われているのだと思います。そしてそれは「命を捨てる」レベルです。「あるサマリア人のたとえ」に分かりやすいケースが記されています。

 友を表す形容詞は実にいろいろ考えられます。なかでも中学生の頃、「しんゆう」についていろいろ考えました。「親友」「真友」「信友」「心友」などです。今は「信友」が一番です。意味は「信仰の友」です。

 イエスさまを信じた者たちは、互いに「信友」(しんとも)です。生前イエスさまが示された愛を、今度は自分たちが実践していく番になったのです。キリスト教においては、信仰と愛は不可分のものです。そしてそれは9節にあるように、神から始まっているのです。

 混迷を深める時代の中にあって、宗教もご多分に漏れません。もろもろの問題の根底には「愛なき信仰」があるように思います。

 イエスさまは、その生涯を通して、愛を体現して下さいました。神は愛です。そのイエスさまが私たちのまことの友、最も信頼できる友となって下さったのです。

 目の前に起こってくることに、やみくもに恐れることなく、互いに祈りを熱くしつつ、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

   2023年5月7日 復活節第5主日礼拝 笹井健匡牧師