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「信友イエス」 ヨハネによる福音書15章12~17節

 1日(月)~3日(水)まで休暇をいただいて、平島禎子師の実家に帰ることができました。2日(火)には平島禎子師の父の誕生日を祝うこともでき、感謝な休暇でした。

 私たちはそれぞれ人生の歩みの中で、さまざまな人と出会います。その中でも「友」と呼べる人との出会いは格別で、大変ありがたい存在です。

 今日の聖書は、印象的な「ぶどうの木」のたとえを受けて、結論として「互いに愛し合いなさい」という「掟」「命令」が与えられます。どのように愛するのかというと、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われるのです。イエスさまは、イエスさまの方から、わたしたちの友となって下さいました。だから私たちにも、自らすすんで、自分の方から友となりなさいと言われているのだと思います。そしてそれは「命を捨てる」レベルです。「あるサマリア人のたとえ」に分かりやすいケースが記されています。

 友を表す形容詞は実にいろいろ考えられます。なかでも中学生の頃、「しんゆう」についていろいろ考えました。「親友」「真友」「信友」「心友」などです。今は「信友」が一番です。意味は「信仰の友」です。

 イエスさまを信じた者たちは、互いに「信友」(しんとも)です。生前イエスさまが示された愛を、今度は自分たちが実践していく番になったのです。キリスト教においては、信仰と愛は不可分のものです。そしてそれは9節にあるように、神から始まっているのです。

 混迷を深める時代の中にあって、宗教もご多分に漏れません。もろもろの問題の根底には「愛なき信仰」があるように思います。

 イエスさまは、その生涯を通して、愛を体現して下さいました。神は愛です。そのイエスさまが私たちのまことの友、最も信頼できる友となって下さったのです。

 目の前に起こってくることに、やみくもに恐れることなく、互いに祈りを熱くしつつ、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

   2023年5月7日 復活節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


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