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「二つの掟」マルコによる福音書12章28~34節

20日(月)坂出大浜教会で行われた四国教区部落解放学習会の講師として、3年ぶりに四国で講演をしてきました。懐かしい人々を含む合計25名の出席者の暖かさに、私も心が熱くなり、少し失敗もしましたが、とてもいい会になりました。

終わった後、教区議長が来られて、ご自身が出会った部落差別のことを語ってくださいました。反対する親御さんをねばってねばって説得し、何とか結婚にこぎつけ、そうしたら、今は孫も二人できて、とても幸せにしているとのことでした。こっちまで心が熱くなり、とってもうれしい思いを与えられました。彼と私とは教団における立場が違いますが、それを越えて、通じるものがあり、ほんとにうれしい気持ちになりました。

今日の聖書のイエスさまと律法学者も、敵対している関係にありました。エルサレムにおける最後の日々、イエスさまを亡き者にしようとしていたのは、祭司長、律法学者、長老たちだったからです。しかし、この律法学者は、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派を立派に論破されたイエスに一目おき、その信じるところの核心を知ろうと、律法の中の第1の掟をイエスに尋ねます。それに対してイエスは二つの掟を答えられました。もしかしたら、この律法学者を試されたのかもしれません。律法学者は、イエスの答えに対して、第1の掟の前提を述べた後、二つの掟を一つにして応答しました。しかも、神を愛し、隣人を愛することは、どんな献げ物・いけにえよりも大事、優先する、と答えました。

ここには、立場は違えど本物同士に通じる「真」があるように思います。二人は相手を認め合い、理解し合い、尊重し合っているのです。本当の意味で「愛し合う」とはこういうことを言うのだと思います。同じようなものを愛するのは、誰にでも簡単にできるのです。

児島教会69年の歴史、それは神によって集められた異なる一人ひとりが紡いで来た歴史です。だからこそ、教会の歩みは「豊か」なのです。同じようなものだけが集まったのでは、ふくらみません。

これからも神を愛し、そして自分を愛し・隣人を愛し、違いを尊重し合って教会の歩みを前にすすめて行く者でありたいと思います。

2017年3月26日 教会創立69周年記念礼拝 笹井健匡牧師

「信じ、祈る」 マルコによる福音書11章20~25節

イエスさまが生きておられた社会は、ローマに支配されていたイスラエル社会であり、搾取や不正がまかり通っていました。そのイスラエル民族の唯一のアイデンティティーと言ってもよい「ユダヤ教」の在り方も腐敗していました。そのような社会に対してイエスさまが憤られたことが今日の聖書を含む11章12節から25節までに記されています。それは、イエスさまがエルサレムに入城された翌日と翌々日のことでした。

イエスさまがいちじくの木を呪われたということが記してあります。旧約聖書には、いちじくはイスラエルを象徴するものであると記されています。(エレミヤ8章13節)いちじくの木に実がなく葉ばかりが繁っている状態というのは、表面的には神を信じ、正しく生きているように見せかけてはいるが、実のない状態、つまり神への信仰がない状態であることを意味しています。イエスさまはエルサレム神殿へ行き、いわゆる「宮清め」をされました。『祈りの家』(イザヤ56章7節)であるはずの神殿が『強盗の巣』(エレミヤ7章11節)になっていることに憤られたのです。翌日再びエルサレムへ行かれたとき、昨日呪ったいちじくの木が根元から枯れていました。そのことを弟子たちがイエスさまに告げると、「神を信じなさい。」(22節)と言われました。神を信じるということは、「山が海に飛び込む」というような、絶対にありえないことでも、それを信じるならばそのとおりになる、と言われたのです。(23節) そして、祈りについてイエスさまは語られました。「信仰と祈り」は切り離すことができないものです。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(24節)とイエスさまは言われました。祈り求めることとは、自分の欲望を満たすものであってはなりません。神さまの前に正しいことを求める時、祈りは聞き入れられるのです。そして、自分も過ちを犯す存在であることを知り、その過ちを神さまは赦してくださるということを覚え、祈る時には、恨みに思う人を赦しなさい(25節)と言われるのです。

様々な問題のある私たち、そして、私たちの社会でありますが、絶対的な信仰をもって祈るならば、その祈りは聞き入れられるのです。「信じ、祈る」ことにより、絶対不動であると思っていた山が動くような出来事が起きるのです。現代の日本の政治は危ういことが多すぎるように思います。このままでいいわけはありません。必ず日本の在り方、世界の在り方が良き方向へ変わるということを、「信じ、祈る」ことが大切であろうと思います。山のように動かないものを動かす、海に飛び込ませる、そのような祈りをなしていく者でありたいと思います。

2017年3月19日 受難節第3主日礼拝 平島禎子牧師

「悔い改め」 ヨブ記42章1~6節

3・11東日本大震災から6年になります。まだまだその痛みは癒されず、復興も道半ばです。特に福島の被災地は、先行きがいまだ不透明です。6年前、確かに多くの人々は、その衝撃の大きさから今までの在り方を考えさせられました。人類とは、?という根源的な問いまでなされました。しかしいつのまにか、それらのことはうやむやになり、いっときの、若い頃の知恵熱、みたいな感じで忘れられ、まるでなかったかのようにして、自分の日常を生きるのに精いっぱいの人が多くなりました。

福島の人々が経験した「不条理」は、今日の聖書のヨブの苦しみと通じるところがあるように思います。ヨブは神の前に正しく生きていた人でした。しかしある日サタンの試みを受けるようになり、家畜、僕、さらに子どもたちまで奪われるようになります。しかしそれでもヨブは「わたしは裸で母の胎を出た・・・」と神への信頼を捨てず、試練に打ち勝ちます。さらに自分自身の身に災いが及んでも「・・・不幸もいただこう・・・」とその試練に耐えたのでした。しかし3人の友人たちが見舞いに来たのち、ヨブは口を開いて、自分の生まれた日を呪い、神を罵倒するかのような言葉の数々を語るようになりました。

そんなヨブに38章で神はついに応答されます。そして今日のところでは、心から悔い改めたヨブの、神への懺悔の言葉が記されています。

ヨブは、自分は正しい、と自己認識して生きていました。私自身もどこかで、自分は正しい、原発に反対し、過剰な建造物に反対し、自然と共に、人と共に生きることが大切だと主張し、少しはそう生きてきた、と自負していました。しかし、もし、自分が被災していたら、そんな軽口は吹っ飛んだのではないかと思います。自分が今、大丈夫だから、安全圏にいるから、シャーシャーといろいろ言うことができるにすぎないのです。

悔い改めとは、神の前に自分を退けること、そしてイエスさまの十字架を前にして、その責任が自分にあることを認めることだと思います。そうして心から真実に悔い改めをするとき、その悔い改めが広がっていき、民全体として生きなおすことができるのではないかと思います。

神さまに対して、自分を退け、そして被災者の人々が救われるように祈る者でありたいと思います。また自分は正しい、という傲慢な思いを悔い改め、神の前に心を打ち砕かれて、受難節のときを一歩一歩歩んで行く者でありたいと思います。

2017年3月12日 受難節第2主日礼拝 笹井健匡牧師

「真の自由」 ヨハネによる福音書8章31~38節

キリスト教世界の価値観のひとつに「自由」があります。いわゆる大正デモクラシーのころには「自由・平等・博愛」ということが盛んに言われました。平等、博愛はまだ日本人にも理解しやすかったと思います。しかし「自由」というのはなかなか理解しにくい概念でした。出エジプトの奴隷からの解放や、フランス革命の支配階級からの解放、アメリカの奴隷解放運動といった歴史を経験していません。またとかく枠や型を大事にする文化があります。

そんな日本人にとって、特に教会外の人々にとって、イエス・キリストは奴隷的隷属から人々を解放した「自由」の象徴としてとらえられました。

今日の聖書では、イエスは「イエスの言葉にとどまり」「真理を知」ったならば「自由」を得ると言っています。ユダヤ人たちは自分たちの先祖にはアブラハムがいる、つまり血統によって自分あちは神から覚えられていると自負していました。しかしそれは言わば「血」に隷属しているのであり、本当の意味で自由ではないとイエスは言われるのです。何物にも縛られず、神と直接つながること、それによって真の自由を得ることができるのです。

ここでは「真理」は明らかにされていませんが、最後の晩餐のとき教えられたように、イエスがわたしたちを愛されたように、互いに愛し合うこと、愛は神から出ていること、神は愛であること、これが心理なのです。

神が愛である、という真理を知ったならば、自由になり、この世の様々なものに惑わされずに人を愛していくことができるのです。そして自由に他者を愛していく歩みをなしていくことで、自分自身さらに自由になっていくのです。

今、十字架へと歩みゆかれるイエスは、自由をもたらすためにこの世に来てくださいました。わたしたちはそのイエスを信じる者として、何物からも自由になり、主イエスの十字架の愛を、神が愛であることを人々に伝えて行く歩みをなして行きたいと思います。

2017年3月5日 受難節第1主日礼拝 笹井健匡牧師