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 「天上の友」という本があります。そこには、私の恩師二人のことも記されています。恩師の一人である乃美尚敏牧師と出会ったのは乃美牧師の最後の牧会の地である福岡警固教会でした。牧師としての最後の6年間のお働きでした。乃美牧師は、長崎、大分、福岡の地で伝道牧会に従事されました。特に大分では17年間もの長きにわたるお働きをされました。「天上の友第四編」の乃美牧師の頁を見て、人生は旅路であるのだなーと思わされたことでした。

 私は出身が福岡で、京都の大学へ行き、教会は、福岡、愛媛、岡山と点々としてきましたが、どの地もなつかしい故郷であると思っています。岡山の地を離れた後は、岡山がまた故郷となるのだろうな、と思わされます。人には地上での故郷があります。しかし、いわゆる地上の故郷とキリスト者の故郷とは異なっています。キリスト者は地上では「よそ者であり、仮住まいの者である」ことが11章13節に記されています。この地上が私たちの全てではないのです。私たちには地上の故郷がありますが、その地上の故郷にまさった故郷、「天の故郷」というものが存在するのです。神さまは、私たちのために「都」を準備してくださっているのです(16節)。私たちの帰る本当の故郷は「天の故郷」です。地上でのからみつく罪を脱ぎ捨て、天を仰いで生きていくことが大切なのではないかと思います。しかし、この世のことをおざなりにしていいということではありません。この世で「望み」と「見えない事実」を持ちつつ、前を向いて歩いていくことが大事ではないかと思います。

 私たちには、「天の故郷」があります。「天の故郷」は遠い昔から変わらずに存在します。そして故郷というからには、私たちは以前すでに「天の故郷」にいた、と言えるのではないでしょうか。そして、この世の人生の歩みを歩みきったならば、再び「天の故郷」へ帰ることができるのではないかと思います。天に帰る、「帰天」という言葉が使われることがありますが、私たちは、「天の故郷」に帰るためにこの地上での旅路を歩み、この地上で様々な経験をし、信仰をもって生きていくのであると思います。そして「天の故郷」に帰った時、天上の友たちと再会することができると信じています。

 全国的に見ても、教会に来る人の数は減っています。児島教会も大変少数の群れとなってしまいました。しかし、この地上において小さな群れであったとしても、天には雲のように大勢の証人たちがいるのだということを覚えなければならないと思います。先に天に帰られた人たちの地上での歩みを思い起こし、その信仰の歩みを私たちの現在を生きる力となしていくことが大切なのであり、天を見上げつつ、この地上において、それぞれの信仰生活をなしていくと共に、伝道に励んでいかなければならないと思います。天上の友たちもまた教会に臨んでおられることを信じ、イエスさまを中心とした、神さまに喜ばれ、聖霊に満ち溢れる教会として成長することができるよう、祈る者でありたいと思います。

    2024年10月13日 聖霊降臨節第22主日 平島禎子牧師


 子どものころ、たくさんの「昔話」を聞きました。おじいさん、おばあさんが登場するものが多いですが、動物もよく登場しました。今では、日常的な関りがあまりなくなった動物も多いです。うさぎが登場するものもありました。因幡の白兎やうさぎとかめ、両方ともうさぎはマイナスのイメージで登場します。

 今回、今日の聖書をあらためて読んで見て、どういうわけか、泥船のイメージが浮かび、ああそうだ、かちかち山だと思い出しました。うさぎが仇討ちをしたヒーローのように描かれています。

 パウロの忠告(10節)を聞かなかったために、ついに船は難破してしまいます。パウロにも命の危機(42節)が迫りますが、百人隊長ユリウス(1、43節)によって助けられて、それどころか全員の命が助かったのです(22節)。天使のみ告げ(23節)があり、必ずローマに着くことを、信仰を持って確信していたからに他なりません。しかしここには書かれていないパウロの経験があったからこそ、パウロは冷静に落ち着いていられたのかも知れません。

 コリント二11:16~33には、パウロの苦難が、これでもか、というほど記されています。中でも25節には、3度の難船と、一昼夜海上に漂ったことが記されています。パウロの時代、地中海の航海は発達していましたが、しかしそれは現代とは違い、遥かに危険な、文字通り命がけのものでした。パウロは何度もその危機を、神さまに救われて、このローマ途上にいるのです。

 教会はよく船に例えられますが、ガリラヤ湖上のイエスさまと一緒の弟子たちに自分たちを重ねますが、地中海上のパウロと一緒の方に自分を置くと、それはそれは恐ろしいと思います。しかしこの船には、著者のルカ(1節以下)、それにアリスタルコ(2節)も一緒にいたのです。信仰者が3人集まっていたのです。そこにはイエスさまも一緒におられたのです(マタイ18:20)。

 私たちも、人生の歩みの中で、信仰の歩みの中で、今日の聖書のような危機的な状況に出会うこともあるかも知れません。もちろん、船は大事です。物理的な建物としての教会も、とっても大事です。泥船ではすぐ沈んでしまいます。しかし最も大事なものは、その船に乗っている者たちであり、そこに信仰と希望と愛があるなら、イエスさまが共におられるのなら、必ずや皆の者が救われるのです。一緒に生きている、共に船に乗っているすべての者が、全員が無事に、目指すところへたどり着くことができるのです。神さまの導きと救いを信じて、最後までこの世の荒波を共に進み行く者でありたいと思います。

2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日礼拝 笹井健匡牧師