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「開かれる」 マルコによる福音書7章31~35節

 今日の聖書は、耳が聞こえず、話すこともできない人がイエスさまのところに連れて来られたことがしるされています。この人のまわりにいた人たちが、この人を癒してもらおうと思い、連れて来たのです。イエスさまのことですから、その人の上に手を置くだけで癒しの業をなすことができるはずです。しかし、イエスさまは、そこにいた大勢の群衆からその人一人を連れ出し、一対一で向き合われたのです。この人を癒すには耳が聞こえ、口がきけるようにするだけではいけない、と思われたのかもしれません。その人の心が閉じた状態であるということを悟られ、その心を癒すために、特別な癒しをなさなければならなかったのではないでしょうか。
 イエスさまは、その人の耳に指を入れ、唾をその舌につけるということをされました。身体的接触をなされたのです。その人は今までに味わったことのない、感覚を持ったのではないでしょうか。そして、イエスさまは、天を仰いで、神さまの力をいただき、深いため息をつくことによって、この人の苦しみに深い共感を示され、アラム語で「エッファタ」と言われました。これは聖書に書かれているとおり、「開け」という意味です。イエスさまは「よくなるように」ではなく、「開け」と言われたのです。これは、めずらしい癒しの言葉です。「よくなれ」ではなく「開け」とイエスさまは言われました。耳と口が開かれるのみではなく、心も開かれるようにとの意味が込められているのではないかと思います。そして、この人は、聞こえ、話すことができるようになり、そしてその心も開かれ、喜びをもって、イエスさまのなされた業を人びとに伝えていくようになったのではないかと思います。
 私たちの心は開かれているでしょうか。また、教会はどうでしょうか。教会はイエスさまを信じる者の共同体であり、教会とはキリストの体であり、私たち一人一人はその部分であるのです。(コリント一12章27節)私たち一人一人が教会の一部として、開かれた人間として外へ向かって行くことなしには、教会は成長しないと思わされます。私たち一人一人が「開かれる」ことを経験し、開かれた心をもって、周囲の人たちに接していかなければならないと思わされます。イエスさまは、私達が心を閉じる時、また、教会が内向きになり閉じた状態になる時、「エッファタ」、「開け」と言われるのではないでしょうか。心開かれると気持ちのよいものです。自分も気持ちよく、また周囲も気持ちよくなる雰囲気を作り出していき、キリスト者として開かれた者として生きていく者でありたいと思います。

2017年8月20日 聖霊降臨節第12主日 平島禎子牧師

「平和への道」 ルカによる福音書19章41~44節

 明後日、8月15日は、敗戦記念日です。私たちは二度と戦争をしないと誓って、戦後の歩みを曲がりなりにも今日まで歩んで来ました。しかし現実には、つまり社会の裏側では、着々と戦争への道が進められてきたとも言えます。
 今年は宗教改革から500年の年に当たりますが、教団の「第二次世界大戦における責任についての告白」いわゆる戦責告白にから50年の年でもあります。この裏に印刷した教団新報のコピーにも、そのことが間接的に表されています。それは「見張り」という言葉です。旧約聖書を通して、得に預言書をとおしてこの「見張り」の役割は、神さまから重要な使命として示されています。引用されているエゼキエル所はもちろん、イザヤ書には56章9~12節に、大変辛辣な「見張り」の役割を担うべき者への批判があります。特に、牧会者は心を刺し貫かれる思いがします。「牧師」には祭司的役割と預言者的役割の両方がありますが、現実は祭司の仕事のみに逃げ込んでいる人が多いのではないでしょうか。
 私は9日の長崎式典での、市長の言葉と、被爆者の言葉こそ、本来牧師が語るべき、つまり、神さまから「見張り」の役目を与えられてる者が語らなければいけない言葉だと思いました。先に記しましたように、宗教改革後は、「万人祭司」です。それは「万人預言者」でもあると思います。心ある人々とともに何とか戦争への道を止めなければなりません。そうでなければあの戦責告白は無に帰ってしまいます。いや私たちの主イエスが、その尊い命までささげて開いてくださった「平和への道」を台無しにしてしまうことになるのです。
 しかし、私たちには何の力もない、と思われるかもしれません。しかし私たちにも日は「武器」があるのです。しかも最強の。それはコリント二10:4に記されています。「わたしたちの戦いの武器は・・・神に由来する力」なのです。どんな武器よりも強いのです。この武器をつかって、この世のあらゆる悪の力に打ち勝ち、主イエスが開かれた「平和への道」を切り開いていくことができるのです。
 見ざる聞かざる言わざる、をそろそろ卒業するときです。そして唯一の被爆国として、また大きな戦争加害、被害国として、世界最高の憲法を持つ国の信仰者として、世界に向かって「平和への道」を伝えて行かなければいけません。それは、イコール、主イエスを宣べ伝えて行くことになるのです。
 神さまに守られ、聖霊に導かれながら、平和の主イエスに従い、それぞれができることをなしていきたいと思います。栄光は神にあれ!地には平和あれ!

2017年8月13日 聖霊降臨節第11主日礼拝 笹井健匡牧師

*教団新報のコピーは児島教会ブログhttp://uccjkojimachurch.at.webry.info/に載せてます。
小さいので、クリックして拡大して読んでください。

「平和を求めて」 マタイによる福音書5章9節

 8月6日は、広島原爆忌です。朝の8時15分にたった一発の原子爆弾によって、広島の人たちの日常が破壊され、多くの人が命を失い、死体の山が築かれ、ものすごいやけどのたために皮膚がただれるなどの被害を受け、水を求めてさまよう人々で溢れ、町は焼け野原になってしまました。また、放射能によって、戦後数年で亡くなった方も多く、また、現在まで原爆症で苦しんでいる方々もおられます。
 私は丸木俊さんの絵本、「広島のピカ」を読み、「じごくも これいじょうおそろしゅうない」、「ピカ(原爆)はひとがおとさにゃ、おちてこん」という文に印象を受けました。原爆が落とされた広島の地は地獄以上の苦しみの地であり、原爆を落とすのは人であるということを再確認することによって、人間が問われていると思わされました。そして、核爆弾のもたらす惨禍を決して忘れてはならないと思わされました。
 今日の聖書には、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と記されています。「平和を実現する」ということは、何もしないではなされないことです。自分は平和主義者だと言って、何もしないで自分だけが平和に浸ることは、平和を実現する人ではありません。今日の聖句は、平和を実現する人になりなさい、というイエスさまの勧めが含まれているのではないかと思います。平和を意味するヘブライ語のシャロームという言葉は、「あらゆる種族の繁栄、すべての人が救われ、満ち足りている完全な状態」という意味があります。たとえ自分たちは戦争状態に置かれていなくても、どこかで戦争が起きている、貧困、飢餓のために苦しんでいる人がいる、病や悲しみや絶望をかかえている人がいる限り、この世界は平和であると言えないのです。ですから、私たちは、シャロームの世界を目指して行かなければならないと思わされます。
 今年、戦後72年を迎えます。戦争体験者の方々の数も年々減ってきています。しかし、本やメディア等によって、戦争の悲惨さを知ることはできます。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないように、一人一人が「平和を実現する」ことに参与していくことが大切であろうと思います。大きなことはできなくてもいい、小さなことから、自分にできることから始めていけばいいと思います。本当に何もできない状況に置かれても、私たちは「祈る」ことができます。平和のために祈りを熱くすことも、平和を実現することです。私たちは、平和の神を信じる者として、神の子として、平和を求めて、それぞれの人生の歩みを、また教会の歩みをなしていく者でありたいと思います。

2017年8月6日 平和聖日 聖霊降臨節第10主日 平島禎子牧師