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 申命記では、出エジプトの指導者モーセが荒れ野の旅を振り返り、今一度、神の愛、律法等について述べられています。今日の聖書の個所は「神が求められること」という表題がついていますが、自分が神に求めることではなく、神が自分に求められることは何か、問うのです。神を信じるということの主体は「私」が中心ではなく、「神」が中心であり、「神」が私に求められていることを知り、それにレスポンスする、応答するということが「信じる」ということではないでしょうか。
 申命記7章8節を見ますと、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」と記されています。神さまは、イスラエルの民が貧弱な小さき民であったが故に、イスラエルの民を選ばれたのです。神さまは、弱い者、小さい者を特に愛されるかたなのです。そして、10章17、18節を見ますと、「人を偏り見ず、賄賂をとることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と記されています。神様は、偏見やずるがしこい生き方を否定されます。そして、親を亡くした子ども、連れ合いをなくした女性の権利が守られ、行きやすい社会にすること、また、寄留者である外国人を大切にすること、「弱い立場」にある人たちが引き上げられるということは、公正なことであると言われているのではないでしょうか。イスラエルの民が異国の地エジプトで寄留者として、どんなに苦しい目にあったか、そのことは民族の歴史の中でも決して消え去ることはない事実です。その痛みを知る者として、「あなたたちは寄留者を愛しなさい。」と言われているのです。
 神の公正とは人間の思っている公正とは違うかもしれません。弱い立場にある人々を引き上げること、それらの人たちのために心配ること、それらの人たちの生活の向上を喜べる者になることが、人間の平等であり、神さまの言われる人間の公正な在り方であろうと思います。
神の公正を人間社会の公正とするために、私たち一人一人が、神を畏れ、神の道に従って歩み、神さまを信じ、神が自分に求められることはなにか、という問いを受け、神の公正がこの世界に実現するよう、祈る者でありたいと思います。

2019年9月29日 聖霊降臨節第17主日 平島禎子牧師

 千葉県で台風による災害が起きてから、2週間近くになります。被災者の上に神さまの慰めと励ましをお祈りします。
 今回も「災害ゴミ」の多さに驚かされていますが、今一つ考えさせられたのは、倒木の異常な多さです。ある報道では、山が荒れ、中がスカスカになった木も多く倒れている状況が映し出されていました。森林国に住む者として、もっと山のことを大切にしなければならないと思わされました。
 今日の聖書は、13章の初めのところで、エルサレムの崩壊を、イエスさまが予言されるところからつながっています。「終末」についてあれこれ言うよりも、ここでイエスさまが言われている教えにこそ耳を傾けたいと思います。
 まず「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」ると言われています。私たち救われた者は、その喜びに生きるのと同時に、イエスさまから託された業を責任をもって全うしていくことが求められているように思います。いやいや、私には何もできません、という声がすぐ聞こえてきそうですが、そんなことはありません。たとえ体が不自由でも、心が病んでいても、希望を失いかけていても、必ず一人ひとりに割り当てられた仕事があるのです。だれかのために祈ること、最後にステファノは自分を殺している人々のために、とりなしの祈りをささげました。祈り、というかたちにこだわらなくても、思うだけでも、大きな業であり、思われた人の力になります。
 そしてイエスさまは、門番には目を覚ましているように、と言われるのです。しかしこの門番は最後に「すべての人」であることが分かります。イエスさまはすべての人に対して、目を覚ましているように言われているのです。
 「目を覚ます」とは文字通り、起きている、眠っていない、ということです。しかしこれは肉体的、生理的に、という意味だけではありません。周りに対して常に心の目を覚ましているように、と言われているように思います。
イエスさまが逮捕されるとき、弟子たちが眠ってしまったように、私たちは「弱さ」をもっている存在です。だからこそ、そんな私たちに対してイエスさまは「目を覚ます」ように繰り返し語りかけ、働きかけて下さるのだと思います。礼拝も、聖書を読み祈る時も、そのようなときだと思います。
 闇が世を覆い、人々が眠ってしまいそうになる、そんな時こそ、私たちは声を掛け合って、「目を覚ます」、そんな歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年9月22日 聖霊降臨節第16主日礼拝   笹井健匡牧師

 人生を四季に例えるならば、やはり高齢の時は、冬に例えられるでしょう。どんな時代もそうだったかも知れませんが、しかしつい最近までは、高齢であることは、人生の多くの知識と知恵を持った、また様々な経験をしてきたがゆえの揺るがない「何か」をもった存在だったように思います。共同体の精神的支柱であったと言っていいのかも知れません。しかし合理性だけが追及される現代にあってはその様相が様変わりしたように思います。
 今日の聖書の著者パウロはご存知のようにもと迫害者でした。180度違う伝道者としての歩みはそれはそれは大変なものだったと思います。しかし彼は立派にその歩みを走りとおして来ました。そして大変高齢になり、世を去る時が近づいたというのです。過去の自分は完全に昇華し、まったく違う人生を見事に生き抜いた、という自負が強く感じられます。しかしそれはすべて復活の主の恵みによるものでした。
 病院や、施設に行く機会が多く与えられたおかげで、多くの人々の、人生の冬の時を共有させていただきました。そこから思わせられたのは、最後まで希望を持ち続け、また主を待ち望む信仰を持ち続ける人の強さとやさしさです。信仰者はどんな状況におかれてもその場で主を賛美し、待ち望んで生きることができます。そして周りの人々を照らすことができるのです。
 私自身は、秋の終わりごろを生きているのでしょうか。冬が近づいているのを感じることが多い昨今です。しかし実りの秋に多くの実を実らせ、自信を持ってパウロのように冬を迎えることはできそうにありません。しかし私自身に決められた道を最後まであきらめずに一歩一歩歩いて行きたいと思います。そして天上に挙げられた信仰の先輩たちに少しでも近づけるよう、老いを生きる姉兄とともに、老いを生きる意味と重さを共有しながら信仰の道を歩んで行きたいと思います。

2019年9月15日 聖霊降臨節第15主日礼拝 笹井健匡牧師

 私たちが生きている社会は、いわゆる法治国家です。それは別の面からみれば管理社会である、という側面を持っています。理に適った管理、それは高度に文明化した社会ではやむを得ないというより、必要なことです。もちろん監視社会となると話は別ですが。
 しかし私たちの内面、心はできる限り自由でいたい、空を飛ぶ鳥を見るたび、またイエスさまの在り方を思うたびそう思います。しかし現実には心、内心も様々なものに縛られているのが実際のところです。
 キリスト教は、ユダヤ教と決別して行く過程で、それまでの様々な戒律、規則と決別して行くことになりました。もとを正せばイエスさまの宣教活動の中に、すでにユダヤ教が神の戒めを忘れ、人間の言い伝えを守っていることが批判されています。(マルコ7章)
 今日の聖書、21節「手をつけるな。味わうな。触れるな。」ではちょっと抽象的で分かりにくいですが、少し前の16節以下を見るとよく分かります。それまでの飲食に関する規定や、ユダヤ教の祭り、新月(ガラテヤ4:10)、そして大きかったと思われるのが安息日です。
 初期のクリスチャンたちは、試行錯誤しながら、イエス・キリストの福音に関係のないものをそぎ落としていったのだと思います。それは言わばクリスチャンたちがユダヤ教から独立し、自由になることでもありました。パウロの手紙等にも何回も、ユダヤ教に戻りそうになるクリスチャンたちへの叱咤激励が記されています。
 今日の聖書では非常に辛辣に書かれていますが、ユダヤ教時代の昔から守って来たものは、結局は、人の規則や教えによるものであり、知恵のあることのように見えても何の価値もない、と言い切るのです。そんなものに縛られないで、福音を信じてキリストを仰ぎ見て生きよう、と。この世を越えた真理を見つめて生きて行こうと促しているように思います。
 現代、様々な規則の中で生きている私たちは、ともすれば心まで不自由になってしまいがちです。しかし神さまの目からみればこの世の事柄はどのように映っているでしょうか。
 イエス・キリストを信じる者として、何者にも縛られない信仰を持って、この世での歩みを自由にすすんで行く者でありたいと思います。

2019年9月8日 聖霊降臨節第14主日礼拝 笹井健匡牧師

 すべての物事、私たちの人生もそうですが、あらゆる存在には、「始まり」があります。以前だったら今日から9月、新しい「秋」という季節が始まるときでした。教会でもどことなく、少しだけ心がクリスマスに向いて行く、そんな感覚を感じるときです。
 創世記の天地創造の物語は、最初、地は混沌であり、闇であった、と記しています。「神の霊が水の面を【動いていた】。」と訳されていますが、この動詞はあまり使われていない言葉のようで、申命記32:11に「鷲が巣を揺り動かし」とありますが、フランシスコ会聖書研究所の聖書の訳の説明によれば、鷲がひな鳥を飛び立たせようとしている様子を表しているようです。そこで新しい出発を促す言葉としてここで使われ、そして神は「光あれ」と言われたのです。
 「光あれ」という言葉は、神が天地を創造され、そしてそれまで混沌とし、闇の状態にあった「地」に、命を与えられた、ということかも知れません。このことをヨハネの福音書では、その書き初めに応用しているのかも知れません。
 古代のユダヤ人たちにとって、世界はそのようにして神の言葉によって始まったのです。
 キリスト教は言うまでもなく、ユダヤ教を母体として始まりました。イエス・キリストを救い主と告白するとき、そのイエスこそが、光であり、新しい始まりである、と最初の弟子たちは信じていたに違いありません。天地万物を創造された神が、私たち人間の救いのためにイエスさまをこの世に遣わして下さった、そのイエスさまのことを一人でも多くの人に宣べ伝えて行こう、そのような信仰に燃えて最初期の伝道は為されたのかも知れません。
 「光あれ」という言葉は時代を貫いて、現代にも希望を与えてくれる言葉かも知れません。混沌、闇、むなしさ、そうしたすべての負の状態を切り開くように、神さまは今も私たちに「光あれ」と言われているのかもしれません。
 ここにいます私たちの信仰生活は、実に様々で、その始まりも多様です。ある人は、学校において、またある人は讃美歌を通して、またある人は、生まれる前から「始まり」があったかも知れません。しかし、共通して言えるのは、それまでの状態がたとえどんな状態であったとしても、神さまはそれぞれに「私たちの始まり」を備えていてくださったということです。そしてそこからスタートした私たちは、最後の最後までその神さまを信じて与えられた光の道を歩んで行きたいと思います。

2019年9月1日 聖霊降臨節第13主日礼拝 笹井健匡牧師