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「神の公正」   申命記10章12~22節

 申命記では、出エジプトの指導者モーセが荒れ野の旅を振り返り、今一度、神の愛、律法等について述べられています。今日の聖書の個所は「神が求められること」という表題がついていますが、自分が神に求めることではなく、神が自分に求められることは何か、問うのです。神を信じるということの主体は「私」が中心ではなく、「神」が中心であり、「神」が私に求められていることを知り、それにレスポンスする、応答するということが「信じる」ということではないでしょうか。
 申命記7章8節を見ますと、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」と記されています。神さまは、イスラエルの民が貧弱な小さき民であったが故に、イスラエルの民を選ばれたのです。神さまは、弱い者、小さい者を特に愛されるかたなのです。そして、10章17、18節を見ますと、「人を偏り見ず、賄賂をとることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と記されています。神様は、偏見やずるがしこい生き方を否定されます。そして、親を亡くした子ども、連れ合いをなくした女性の権利が守られ、行きやすい社会にすること、また、寄留者である外国人を大切にすること、「弱い立場」にある人たちが引き上げられるということは、公正なことであると言われているのではないでしょうか。イスラエルの民が異国の地エジプトで寄留者として、どんなに苦しい目にあったか、そのことは民族の歴史の中でも決して消え去ることはない事実です。その痛みを知る者として、「あなたたちは寄留者を愛しなさい。」と言われているのです。
 神の公正とは人間の思っている公正とは違うかもしれません。弱い立場にある人々を引き上げること、それらの人たちのために心配ること、それらの人たちの生活の向上を喜べる者になることが、人間の平等であり、神さまの言われる人間の公正な在り方であろうと思います。
神の公正を人間社会の公正とするために、私たち一人一人が、神を畏れ、神の道に従って歩み、神さまを信じ、神が自分に求められることはなにか、という問いを受け、神の公正がこの世界に実現するよう、祈る者でありたいと思います。

2019年9月29日 聖霊降臨節第17主日 平島禎子牧師

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