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「生きた水」  ヨハネによる福音書7章37~39節

 近年は、残暑が非常に厳しく季節感が麻痺しそうですが、もう10月、本来なら秋たけなわ、の季節です。今日の聖書は仮庵祭の最終日の出来事です。名前の由来は、荒野での40年に及ぶ天幕生活を、仮庵で一週間過ごすことによって想起するという意味があります。これがいわゆる収穫感謝と結びついて、三大巡礼祭になっていました。
 古代の祭りには儀式が多く取り入れられていましたが、特にこの祭りでは、水に関するもの、水注ぎ、水汲み等の儀式が行われていたようです。つまり荒野で渇くことが多かったイスラエルの民が、その時の経験を想起し、神の恵みを再び心に刻むことが一番の目的だったのかも知れません。しかし今で言うボジョレーヌーボーの解禁日ではありませんが、新しいぶどう酒に酔っぱらっている人たちが、祭りの後半には多くなっていたのかも知れません。しかし、そんな人たちだけではなく、イスラエルの現状を憂い、未来を心配していたまともな信心深い人々もいたに違いありません。あの時、神さまが、あの荒れ野での40年を導き守ってくださったように、今の自分たちを顧みてくださいとの祈りをもって祭りに来ていた人たちもいたと思います。
 イエスさまはそんな人々に対して、形骸化してしまった祭りに酔いしれるより、自分の話を聞くように(14節)、まことの神の言葉を聴くようにと教えられていたのだと思います。形式だけになってしまったユダヤ教の中で、懸命に、神に立ち帰るように説教されたのだと思います。そしてイエスを信じたならば、やがてその時(ペンテコステ)が来たら、聖霊がまるで生きた水のように流れ出ると言われたのです。
 人はパンだけで生きるのではない、神の口から出る言葉によって生きる、と言われたように、人は水だけで渇きを癒されるのではない、イエスを信じることによって与えられる聖霊によって、自分自身も全身をうるおされ、そして周りの人々をもうるおして行くのだと言われているように思います。
 お金や、物や、情報が散乱し、気が付けば多くの「ゴミ」の中で、現代の砂漠の中で生きているような私たちに対して、もう一度立ち止まって本当に大切なものは何かを、イエスさまから問われているように思います。
イエスさまから「生きた水」をいただいて、心も魂もうるおされ、日々の歩みを、うるおいある愛をもって、なして行く者でありたいと思います。

2019年10月6日 聖霊降臨節第18主日礼拝 笹井健匡牧師   

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