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「祈りの力」  テサロニケ信徒への手紙一5章16~22節

 昨年10月17日、私たちが敬愛する難波玉惠姉が召天されました。平島牧師と私が赴任したころはまだお元気で、訪問するとよくいろんなお話を聞かせて下さいました。また途中から送迎をするようになりました。その車中でもほんとに愛と信仰をもって教会とそれに連なる人々のことを話して下さいました。
 入院され、やがて施設に移られてからも、訪問するといつも私たちの手を握りその時々の思いを、率直にまた愛と配慮をもって話して下さいました。讃美歌もご一緒に歌いました。また祈りを合わせました。今は天で安らかな時を愛する人々に囲まれて過ごしておられるのではないかと思います。
 今日の聖書は児島教会にとって大切な個所だと思います。新会堂が完成し、献堂式を終え、その翌年の2011年度の信仰目標に掲げた聖句のところです。言わば新生児島教会のスピリットが、ここに込められていると言っていいのかも知れません。
 この手紙はパウロが書いた手紙の中で最初期のものです。非常に初々しいというか、シンプルな言葉遣いが多く、ローマの信徒への手紙等とは正反対です。おそらく、あのコリント滞在時に、先に寄って来たテサロニケの教会の噂を耳にして、励ましと慰めを与えるために書いたのだと考えられます。
 今日は「祈り」に注目したいと思います。信仰の歩みでなすことはいろいろありますが、最後の最後、もはや何もできなくなった時でも、残された奉仕、業は祈りであると私は思っています。日本人は、どうしても形式にとらわれがちですが、私は、祈りとは、究極的には、「思う」ことだと思っています。神さまのことを思い、信仰の友のことを思い、多くの人々のことを思う、そのことは実は大変大きな力をもっており、時に大きなヤマをも動かす奇跡を起こすと私は信じています。パウロもその祈りの力をよくよく知っていたと思われます。だからこそ、25節で、自分のためにも祈ってほしいと記しているのです。
 祈りは、神さまとの間でももちろん、信徒同志の間でも両方通行でなければなりません。祈りは言わばキャッチボールのように行き来するものです。そのことによって互いにより強められ、また慰められ、励まされるのです。
 私たちも初心に帰って、祈りの力が最大限発揮されるよう、神さまを覚え、またお互いを覚えて、祈りつつ信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年10月13日 聖霊降臨節第19主日礼拝  笹井健匡牧師

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