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 教会は神から呼び集められた者たちの集まりです。その呼び集められた者とは、13節にありますように、「一つの霊によって、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」者たちのあつまりであります。人種的、社会的、精神的、宗教的対立は、この新しい体の中で克服されたのです。

しかし、悲しいことに、コリントの教会では、分裂が起きてしまっていました。教会の中には、自分の賜物を誇り、他の人々を軽視する言動を繰り返す人たちがいたのです。パウロは、そのようなコリント教会の人達に対して、そのことを正すよう、手紙を書いたのです。

 第一に、自分には強い人たちの持っている賜物を持っていないので、体に属さないと言ってはならないのです。その人にはその人の賜物があり、それは他の賜物と同じである必要はないのです。足も耳も、手や目とは異なるけれども、同じ体を構成する部分なのです。

 第二に、ある部分が他の部分を要らないと言うならば、多くの部分が統一して成り立つ体はその統一を失うことになります。目も手も頭も足も一つの体を構成するのに重要な部分なのです。それぞれの部分すべてが、神さまによって定められたものなのです。

 第三に、パウロは、「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです。」(22節)と言っています。弱い人、また誰の中にもある弱さこそが必要なものであるのだ、というのです。強い者と弱い者、各人の強さと弱さが調和されることにより、教会に分裂が生じるのを避けることができるのです。

教会というのは、互いに他者のことを思い合い、一人の人が苦しむなら、他の人たちすべてが苦しみ、一人の人が尊ばれるならば、すべての人が喜ぶ、そのような共同体なのです。

 体の各部分が多様性を認め合い、共存し、協力することの中に、人間存在の全体が取り入れられているのです。自分を高くして他人を軽蔑することも、また、劣等感を持つことも教会の中にはあってはならないことなのであります。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と27節に記されています。教会はキリストの体であり、各人は、その部分として特別の賜物と使命が与えられているのです。一人一人をそれぞれの教会にあって位置づけて下さるのは、神さまであるということを忘れてはいけません。私たちは、神さまから与えられた賜物を持っているのです。教会は、神さまから出て、神さまの方へ向かっている共同体であるが故に、キリストの体であると言えるのではないでしょうか。

 私たち一人一人は、キリストの体の一部分部分です。高慢になったり、劣等感を持ったりすることによって、体を分裂させてはいけません。多様性を認め合い、足りないところは補い合い、富んでいるところがあったら分け合うそのような者たちでありたいと思います。苦しみも喜びも分かち合うキリストの体として、共に歩んでいく者でありたいと思います。

    2023年4月30日 復活節第4主日 平島禎子牧師


 ウクライナ戦争が始まって、明日で1年と2カ月になります。一日でも早く、平和が実現することを心から祈ります。児島教会の信仰目標に「平和の主」を掲げました。わたしたちの主イエス・キリストには、その「主」の、ひとつの重要な要素として、「平和」があります。

 それが、もっとも強く表れているのが、エルサレム入城の場面だと思います。ルカ福音書は「平和への道がエルサレムには見えない」と記しています。すべての福音書で主イエスは、子ろばに乗られました。ヨハネ福音書とマタイ福音書は、そこにゼカリヤ書を引用しました。

 今日の聖書、ゼカリヤ書9:9~10は、重要なメシア預言と言われています。内容的には、イザヤ書11章と53章の間に位置するように思われます。そのメシア的王が「ろばに乗って来る」というのです。その「ろば」は「雌ろばの子であるろば」だと記されています。一見、不思議な表現のように思います。おそらくは、雌ろばと雄馬の子、「らば」ではないと言っているようです。ダビデ王やその子ソロモン王たちは、「らば」に乗っていました(列王記上1:33他)。

 王というと、馬や「らば」に乗るのが通常でした。ゼカリヤはそれを否定しているのだと思います。主イエスもエルサレムにおける律法学者たちとの最後の議論において、「ダビデの子」を否定しました。共通するのは、強大な武力によって平和を実現するのではなく、神に従い、そして神から与えられた勝利によって、真の平和は実現するという信仰です。

 高ぶることなく「ろば」に乗るメシア的王は、イザヤ53章の受難のメシアへつながるのだと思います。主イエスは、決してダビデやソロモンのような、人々の上に君臨する立派な王ではなく、もっとも低き存在として、最底辺から救いの業を実現される平和の主でした。そしてそれは受難を経て初めて開かれる真の勝利、すべての人の救いの道だったのです。

 この新しい一回りも、平和の主を信じ、そしてそこにこそ依り頼んで、平和への道を歩んで行く者でありたいと思います。世界が平和で満ちるよう、身近なところから、祈りつつ、平和を実現して行く歩みを一歩ずつ進めて行きたいと思います。

 

    2023年4月23日 復活節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書には、エマオ途上の話です。十一弟子以外の二人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かった時に起きた出来事が記されています。二人は道すがら、イエスさまが十字架上で処刑されたこと、その三日後の朝、イエスさまを葬った墓は空であり、そこには天使がいて、「イエスさまは生きておられる」と言ったということの不思議さについて、あれやこれやと論じ合いながら、歩いていました。そのような二人にイエスさまが近づいてこられ、一緒に歩き始められました。しかし、二人の目は遮られて、イエスさまだとはわかりませんでした。イエスさまが二人に、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」(17節)と訊かれました。すると、二人は「暗い顔をして」(口語訳聖書-悲しい顔をして)立ち止まりました。二人はとても悲しかったのです。二人は、話の中で、イエスさまが力のある「預言者」であり、イスラエルを(ローマから)解放してくださると望みをかけていた方であった、と言いました。この二人を始め、弟子たち、大勢の人たちは、イエスさまがこの世の王となる人だと思っていたのです。イエスさまは、二人の話を聞かれて、「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(25、26節)と言われました。そして、聖書全体に渡りご自分について記されていることを語られました。特に、イザヤ書53章の主の僕の苦難と死について詳しく語られたのではないかと思います。

 そうしてエマオに着くと、二人はなお先に進もうとされるイエスさまを無理に引き止めました。そして、家に入って一緒に食事の席に着いた時、イエスさまはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになりました。そうすると、二人の目は開かれ、その人がイエスさまであるということがわかりました。すると、イエスさまの姿は消えてなくなりました。しかし、二人はただただ、喜びに満たされました。復活のイエスさまが自分たちに現れてくださった。振り返って考えると、イエスさまが聖書の話をされていた時、私たちの心は燃えていたではないか、と言ったのです。

 復活のイエスさまに出会うということは、「心が燃える」ほどの出来事です。それは、心の内側が熱くなり、メラメラと火が燃え上がるような感情です。このエマオ途上の二人は、エルサレムからエマオへと悲しみの中で、論じ合いながら歩いていましたが、主イエスが現れ、聖書の話を聞いた時、心が燃える経験をし、そのことが、主イエスとの食事の時に分かり、時を移さず、急いでエルサレムに帰るということをしました。この時も、二人の心は燃えていたのであろうと思います。

イエスさまの復活は、心が燃える出来事です。私たちも、心を燃やし、時を移さずして、行動をなしていく者でありたいと思います。復活の主イエスさまに出会い、信仰をもって、なすべき務めをなしていく者でありたいと思います。

    2023年4月16日 復活節第2主日 平島禎子牧師


イースターおめでとうございます!長いレント(受難節)の期間がようやく終わり、心からの喜びの日、イースターを迎えることができました。クリスマスとはまた違う、晴れ晴れとした、そして限りなく深い喜びを感じます。

キリスト教の信仰は、このイースターがあったから始まりました。主イエスが復活され、多くの人に(コリント一15:6)現れたのが起源です。しかし今日の聖書は、さらにその前の、プレ復活と言えるような事柄を伝えています。

ここではまだ、復活の主イエスは登場しません。イエスの遺体に用いるため、香料と香油を持ってきた女性たちに現れたのは、二人の天使でした。遺体がないことで途方にくれていた女性たちに、天使は主イエスが復活されたことを告げました。

イエスの言葉を思い出した女性たちは、天使が告げた復活を信じることができたのだと思います。そして使徒たちに話しますが、彼らは信じませんでした。

遺体がないことに驚いたペトロも、やはり復活は信じられませんでした。

ここには復活信仰の神髄があるように思います。34節に復活の主がペトロに現れたことが記されていますが、この時もしかしたら主イエスは、トマスに言われたように「わたしを見たから信じたのか‥‥。」と言われたかも知れません。

見ないで、つまり聞いて信じることこそが、復活信仰です。

女性たちは、天使から聞いて、信じました。その後、多くのクリスチャンはみな、福音を聞いて信じたのです。この、聞いて、信じて、知らせる、の繰り返しがキリスト教の歴史そのものです。

メシアと信じ、そして尊敬し、愛してやまなかったイエスが、十字架上で息を引き取ったのは、従っていたすべての人にとって、この上ない絶望でした。すべての希望が潰えてしまったように感じたことでしょう。しかし神さまは、その主イエスを復活させられたのです。ここに希望があります。この世的には、人間の思いからするなら、ジ・エンド、すべてが終わってしまったという状況が、復活によって新しい希望へ、新しい生へ、変えられたのです。

この2023年度も、大変なことが待ち受けているかも知れません。しかし、どんなに厳しい状況であっても、絶望的に思える事柄であっても、復活信仰に生きる私たちには、すべては最終的に希望に変えられる、そしてまた新しく生きて行くことができることを信じて、歩んで行く者でありたいと思います。

 

2023年4月9日 イースター礼拝(復活節第1主日) 笹井健匡牧師


 2023年度がスタートしました。平島禎子師と私にとっては、10年目となりますので、10回目のスタートです。

 今年度は棕梠の主日から始まることになりました。人によっては、受難週から始まるなんて、なんか大変そう、というかも知れません。しかし、受難週の次はイースターです。そう考えると、大変なことがあっても、最後には必ず復活する、だから大丈夫、と言うこともできるのではないでしょうか。

ルカによる福音書では、イエスさまは、エリコのザアカイの家に宿泊されて、「ムナ」のたとえを始め多くの教えをなさった後、エルサレムへと出発されます。他の福音書と同じように、子ロバの話が印象深く記されています。そこからいろいろな豊かな示唆が与えられます。

 しかし今日は、その手前の、エルサレムへと出発される時、に注目したいと思います。その時イエスさまは、「先に立って」進まれたことが28節に記されています。これはマルコによる福音書の3回目の受難予告(マルコ10:32~)からとられています。そこでは弟子たちが驚き、従う者たちが恐れたことが記されています。マタイはこれをきれいにカットしています。しかしルカはこれを、エルサレム直前におきました。何らかの資料があったのかも知れません。

おそらくそれまでの約3年と言われる宣教活動の中で、多くの村々、町々を訪ねて旅をされたとき、イエスさまは先頭に立つことはなかったのだと思います。集団の真ん中にいて、あるいはやや後方にいて、みんなのことを暖かく見守っておられたのではないでしょうか。みんなもイエスさまがちゃんと見てくれていることを感じて、安心して旅を続けることができたのではないでしょうか。しかし、ここぞという時、いざ鎌倉、という時、イエスさまは集団の先頭に立ち、その決意と覚悟、そしてこれから起こる驚くべき、また厳しい状況を知らせられたのではないかと思います。ふだんは優しく、みんなを大きな愛で包んでおられたイエスさまが、いざエルサレムという時、先頭に立ち、脊中で厳しさを、受難の道を示されたのではないかと思います。

 これからどのようなことが待ち受けているのか、私たちには皆目見当もつきませんが、大丈夫です。すべてをご存知の復活の主が先頭に立って、道を切り開いて先に歩んで下さいます。羊が羊飼いについて行くように、わたしたちも先立つイエスに従って、この年度も歩みを進めて行きたいと思います。

 

    2023年4月2日 棕梠の主日礼拝 笹井健匡牧師