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「平和の主」 ゼカリヤ書9章9~10節

 ウクライナ戦争が始まって、明日で1年と2カ月になります。一日でも早く、平和が実現することを心から祈ります。児島教会の信仰目標に「平和の主」を掲げました。わたしたちの主イエス・キリストには、その「主」の、ひとつの重要な要素として、「平和」があります。

 それが、もっとも強く表れているのが、エルサレム入城の場面だと思います。ルカ福音書は「平和への道がエルサレムには見えない」と記しています。すべての福音書で主イエスは、子ろばに乗られました。ヨハネ福音書とマタイ福音書は、そこにゼカリヤ書を引用しました。

 今日の聖書、ゼカリヤ書9:9~10は、重要なメシア預言と言われています。内容的には、イザヤ書11章と53章の間に位置するように思われます。そのメシア的王が「ろばに乗って来る」というのです。その「ろば」は「雌ろばの子であるろば」だと記されています。一見、不思議な表現のように思います。おそらくは、雌ろばと雄馬の子、「らば」ではないと言っているようです。ダビデ王やその子ソロモン王たちは、「らば」に乗っていました(列王記上1:33他)。

 王というと、馬や「らば」に乗るのが通常でした。ゼカリヤはそれを否定しているのだと思います。主イエスもエルサレムにおける律法学者たちとの最後の議論において、「ダビデの子」を否定しました。共通するのは、強大な武力によって平和を実現するのではなく、神に従い、そして神から与えられた勝利によって、真の平和は実現するという信仰です。

 高ぶることなく「ろば」に乗るメシア的王は、イザヤ53章の受難のメシアへつながるのだと思います。主イエスは、決してダビデやソロモンのような、人々の上に君臨する立派な王ではなく、もっとも低き存在として、最底辺から救いの業を実現される平和の主でした。そしてそれは受難を経て初めて開かれる真の勝利、すべての人の救いの道だったのです。

 この新しい一回りも、平和の主を信じ、そしてそこにこそ依り頼んで、平和への道を歩んで行く者でありたいと思います。世界が平和で満ちるよう、身近なところから、祈りつつ、平和を実現して行く歩みを一歩ずつ進めて行きたいと思います。

 

    2023年4月23日 復活節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


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