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「キリストの体」 コリントの信徒への手紙一12章12~31節

 教会は神から呼び集められた者たちの集まりです。その呼び集められた者とは、13節にありますように、「一つの霊によって、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」者たちのあつまりであります。人種的、社会的、精神的、宗教的対立は、この新しい体の中で克服されたのです。

しかし、悲しいことに、コリントの教会では、分裂が起きてしまっていました。教会の中には、自分の賜物を誇り、他の人々を軽視する言動を繰り返す人たちがいたのです。パウロは、そのようなコリント教会の人達に対して、そのことを正すよう、手紙を書いたのです。

 第一に、自分には強い人たちの持っている賜物を持っていないので、体に属さないと言ってはならないのです。その人にはその人の賜物があり、それは他の賜物と同じである必要はないのです。足も耳も、手や目とは異なるけれども、同じ体を構成する部分なのです。

 第二に、ある部分が他の部分を要らないと言うならば、多くの部分が統一して成り立つ体はその統一を失うことになります。目も手も頭も足も一つの体を構成するのに重要な部分なのです。それぞれの部分すべてが、神さまによって定められたものなのです。

 第三に、パウロは、「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです。」(22節)と言っています。弱い人、また誰の中にもある弱さこそが必要なものであるのだ、というのです。強い者と弱い者、各人の強さと弱さが調和されることにより、教会に分裂が生じるのを避けることができるのです。

教会というのは、互いに他者のことを思い合い、一人の人が苦しむなら、他の人たちすべてが苦しみ、一人の人が尊ばれるならば、すべての人が喜ぶ、そのような共同体なのです。

 体の各部分が多様性を認め合い、共存し、協力することの中に、人間存在の全体が取り入れられているのです。自分を高くして他人を軽蔑することも、また、劣等感を持つことも教会の中にはあってはならないことなのであります。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と27節に記されています。教会はキリストの体であり、各人は、その部分として特別の賜物と使命が与えられているのです。一人一人をそれぞれの教会にあって位置づけて下さるのは、神さまであるということを忘れてはいけません。私たちは、神さまから与えられた賜物を持っているのです。教会は、神さまから出て、神さまの方へ向かっている共同体であるが故に、キリストの体であると言えるのではないでしょうか。

 私たち一人一人は、キリストの体の一部分部分です。高慢になったり、劣等感を持ったりすることによって、体を分裂させてはいけません。多様性を認め合い、足りないところは補い合い、富んでいるところがあったら分け合うそのような者たちでありたいと思います。苦しみも喜びも分かち合うキリストの体として、共に歩んでいく者でありたいと思います。

    2023年4月30日 復活節第4主日 平島禎子牧師


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