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「救いの約束」 イザヤ書52章7~10節

 イザヤ書52章7節には、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いをつげ、あなたの神は王になられた、とシオンに向って呼ばわる。」と記されています。「山々を行き巡った者の足」は、いわゆる「美しい足」ではないと思います。その足は埃にまみれ、土がつき、おそらくまめがいくつもできて、まめがつぶれて血がふき出していたかもしれません。しかし、そのような汚れた足であったとしても、その人の告げる良い知らせ、平和、恵み、救いを語る言葉、神さまが王になられたという言葉を告げる者の足は、「この上なく美しいもの」として捉えられるのです。
 10節には、「神さまは、イスラエルの民だけでなく、すべての国々の民にその姿をあらわされた」ということ、「地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」ということが記されています。イスラエル民族に限定されない、全世界の全人類の救いが与えられるのだということが記されているのです。
 しかし、イスラエルの民の大半は、このような言葉を聞いても「選民思想」を持ち他民族より自分たちを優れた者としていました。ですから、本当の意味で、全世界に神の「救いの約束」が果たされるためには、イエスさまの誕生なしにはなされないことでした。クリスマスは神さまの「救いの約束」の成就です。イエスさまという存在によって私たちは神の救いを目の当たりにするのです。イエスさまを通して、神さまはすべての人を慰め、贖い、救おうとしてくださるのです。
 しかし、救いに与った者として止まることなく、救いに与った者の使命がローマの信徒への手紙10章14、15節に記されています。「ところで信じたことのない方を、どうして呼び求められよう、聴いたことがない方を、どうして信じられよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてある通りです。神の救いに与った者が、今度は宣べ伝える者へと変えられなければならないのです。それは決してたやすいことではありません。足がボロボロになるような思いをしなければならないかもしれません。しかし、「喜びの知らせ」を告げ歩くことによって、汚れた足であったとしても、「なんと美しいことか」と言われるようになるのです。私たち1人1人「救いの約束」を与えられた者として、それぞれが、「救いを伝える美しい足」を持って歩んで行く者でありたいと思います。

2016年11月27日 待降節第1主日 アドベントⅠ 平島禎子牧師

「神の僕」 マタイによる福音書12章15~21節 
 
今日は、収穫感謝日、謝恩日です。収穫感謝は、直接的には食物の収穫を感謝するものですが、謝恩日と重なったことで、隠退教師たちの現役時代の働きを覚え、収穫は多いが、働きでが少ないと言われたイエスさまの言葉を思い起こす日でもあります。
 イエスさまは、まことの神であり、まことの人でありますが、決して「現人神」のような、偉そうな存在ではありません。それどころか真逆の「僕」なのです。イエスさまは、畏れ多いことですが、神に「僕」としてこの世に来られました。馬小屋に生まれられ、貧しい大工として働かれ、この世で生きるのが大変な人々のところへ行き、神の国の福音を宣べ伝え、病をいやされたのです。
 18節、21節に「異邦人」とあるのが少し奇妙な感じを受けますが、マタイの福音書では、イエスさまが宣教活動を始められたとき、4章15節16節で、異邦人のガリラヤ、という表現がされています。つまり、サマリアは言うに及ばず、ガリラヤも、外国の文化が相当流入しており、エルサレムを中心とするユダヤ地方に住むイスラエル人からすれば、異邦人同然であったのです。イエスさまもアラム語、つまりシリアの言葉を話しておられました。マタイにとっては、異邦人という言葉は、文字通り、外国人という意味もありますが、文脈によっては、「イスラエルの失われた羊」に似たような、神の羊の群れからこぼれそうな、人々、といった意味合いを持つ言葉だったのだと思います。
 しかし、イエスさまは、決してそんな、いわば傷ついた葦、くすぶる灯心のような人々を見捨てられない。さまざまな事情により、心に傷を負いながら生きている人々、また、ヤハウェへの信仰が消えそうになりそうな人々をこそ、イエスさまは救い、それらの人々の希望となられた方であるとマタイは記すのです。
 今の日本の私たちクリスチャンも、同じような状況ではないかと思います。クリスチャンであるがゆえに、不条理な傷を心に受け、また信仰が消え入りそうになることも多々あるのではないかと思います。しかし、イエスさまは、決して私たちを見捨てられない、信仰の灯を消されないのです。
 アドベントを次週に迎えようとするこのとき、もう一度、私たちの救い主である、主イエスは、神の僕としてこの世に来られ、もっと低きところから救いの業を始められた方であることを心に刻み、クリスマスを迎える心の備えを一人ひとりがなしていく者でありたいと思います。

2016年11月20日 降誕前第5主日礼拝 笹井健匡牧師

「悔い改め、立ち帰る」 使徒言行録3章17~19節
 
 昨日、岡山教会で教区部落解放講演会が行なわれました。あらためて、部落差別の現実を考えさせられるとともに、人類がその歴史を通して犯してきた、過ち、罪の重さを思わされました。
 神さまは、ノアの洪水の後、再び人類を滅ぼさない、と誓われ、そして、その後も罪を重ねた人類に対して、その罪を救うため、主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。
 今日の聖書は、「美しの門」として有名な箇所です。金銀は私にはないが、…イエスの名によって歩くように、ペトロが言った場面の続きです。癒された人を見て驚く人々に12節以下でペトロは説教をしました。自分の力や信心ではなく、16節にあるようにイエスによる信仰がこの人を癒したとペトロは言います。そしてあんなことをしたのは「無知」だったから、と言うのです。「あんなこと」とはもちろん主イエスを十字架に架けたことです。ペトロは、自分の経験からも、人々の「無知」をよく分かっていたのだと思います。
 「無知」は時に、人を冤罪に陥れ、命をも奪うのです。このことは、私たち日本人には、特に大切な戒めだと思います。
 しかし、それでは終わりません。18節にあるように、神の業であったのだとペトロは言います。驚くべきことですが、メシアは、苦しみを苦しみぬいたからこそ、救いの道を開かれたのです。
 私たちがなすべきことは、救われた者として、まず、神の前に、謙虚に、心から悔い改めること、そして神に立ち帰ることです。神に背を向け、忘れ、あるいは無知であった自分を懺悔し、まことの神に、神さまのもとに立ち帰るのです。
 現代は、世界中で、ますます混沌とした状況が広がっています。先行きが見えない。そんな中、危険なカルト集団が暗躍しています。そんな今の時代だからこそ、私たちはまず、自らがまことの神にしっかりと悔い改めて立ち帰り、主イエスにあって生きる者となりたいと思います。そしてむなしきものに誘われて行く、世の人々に、まことの神を示し、人間の本来の在り方、生き方を、正しい歩みを、主イエスに従ってなしていく者でありたいと思います。
 
2016年11月13日 降誕前第6主日礼拝 笹井健匡牧師

「一粒の麦」 ヨハネによる福音書12章20~26節 

 昨年は6月に召されたおO姉を中心に覚えて、この召天者記念礼拝をささげました。この一回りは、召される方なしで、今日の日を迎えることができ、神さまに心から感謝いたします。
 私たち人間は、生きること、生かされていることを当たり前に良きことと考えがちですが、実際にはいろいろなケースが存在します。・・・。
 今日の聖書では、イエスさまは、死を前にして、「栄光を受ける時が来た。」と言われました。イエスさまにとっては、「死」は栄光を受けることだと言われているのです。実際には、この後、十字架の苦しみを受けられることになります。そしてゲッセマネでは、汗が血の滴りのように地面に落ちるほどの苦しい祈りを通して、最後の決意を固められるのです。どれほどつらく、苦しい決断だったでしょうか。しかし、それなしには、多くの実を結ぶことはできなかったのです。
 24節には「一粒の麦」とあります。「麦」は、主食であるパンの材料になります。今まで、「一粒」に心を奪われていましたが、今回あらためて示されたのは、「麦」という最も大切な穀物だったという点です。日本では、米にあたります。そして、五穀とか十穀とか、さらに最近では十六穀までありますが、その中でもっともイスラエルの人びとにとって、大切な存在であった「麦」であるとイエスさまは言われたのかもしれません。だからこそ、そこからまた、大切な実が多く実るのです。
 私たちは、「麦」や「米」にはなれないかも知れません。しかし、粟(あわ)や稗(ひえ)、ここ岡山でいうなら黍(きび)になることはできます。26節にあるように、心からイエスさまに仕えるならば、神さまはその人を大切にして下さるのです。
 前に並んでいるお写真の方々、私たち児島教会の信仰の先達たちも、それぞれの実を結んで信仰の生涯を生きられました。そのおかげで今日の児島教会があるのです。先人からのバトンを渡された者として、この困難な時代を、忍耐をもって、粟か稗か、はたまたどんな実か分かりませんが、神さまが一人一人に備えて下さっている賜物を生かして、それぞれに実を結ばせていきたいと思います。
 そしていつの日か、私たちも天に帰る日が来たならば、すでに天上にあげられている姉妹、兄弟たちと逢いまみえ、自分の結んだ実を笑顔で報告できるように、地上での歩みをなしていく者でありたいと思います。

2016年11月6日 聖徒の日・召天者記念礼拝 笹井健匡牧師

「ガリラヤ湖のほとり」 マルコによる福音書1章16~20節

 昨年は、深山公園で、山に囲まれた中で、野外礼拝を行いました。今年はこの渋川海岸で、瀬戸内海のそばで野外礼拝をできることを神さまに感謝します。
 しかし、実を言いますと、海のない京都で育ったわたしには、海水浴と言えば琵琶湖でした。向こう岸がほとんど見えず、まるで海のようでした。今治時代、伊予小松時代も、愛媛県から見る瀬戸内海は、海のように広いところでした。正直に告白しますが、こちらに来て、いまだにこの瀬戸内海を見ていると、湖にしか見えません。
 昨年だったか、やはりシーズンオフに平島禎子牧師と二人で砂浜を歩きました。今日の聖書のイエスさまは、たったひとりでガリラヤ湖のほとりを歩いておられたのです。イエスさまにとってガリラヤ湖のほとりは、どういう場所だったのでしょか。以前もお話したように思いますが、今日の聖書の前のところで、イエスさまはヨハネに代わって、福音を述べ伝えられたことが記されています。ガリラヤの村々、町々を巡られ、福音を当時の社会で一番厳しい状況に置かれていた人々に、ひとりで、語られたのだと思います。しかし、何らかの問題があったんだと思います。だからこそ、この後どうすれば良いか、考えながらガリラヤ湖のほとりをひとり歩いておられたのだと思います。そのとき、神さまはイエスさまに4人の漁師を指し示されたのだと思います。彼らは「すぐに」イエスさまに従いました。
 ガリラヤ湖のほとりは、イエスさまにとって、「山」と同じように、神さまと対話する「場」だったのだと思います。波の音を聞きながら、吹いて来る風を感じながら、神さまと静かに語らわれた、そして漁師との出会い、それがこの後、イエスさまの宣教活動を大きく進展させて行くことになるのです。
 私たちも神さまが創造された大自然の中で、それぞれの神さまとの対話の「場」を持ちたいものだと思います。そして、日常を少しだけ忘れ、神さまのことを思い、自分の人生を思い、自然に癒され、新しい力を与えられて、また日常の歩みへと戻っていく、少しだけ新しい、元気な自分になって・・・。
 神さまが、わたしたち一人ひとりを豊かに愛し、さまざまな必要なものを与えて下さっている、その大きな恵みに感謝し、信仰の歩みを続けていく者でありたいと思います。

2016年10月30日 野外礼拝(渋川海岸) 笹井健匡牧師