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「一粒の麦」 ヨハネによる福音書12章20~26節

「一粒の麦」 ヨハネによる福音書12章20~26節 

 昨年は6月に召されたおO姉を中心に覚えて、この召天者記念礼拝をささげました。この一回りは、召される方なしで、今日の日を迎えることができ、神さまに心から感謝いたします。
 私たち人間は、生きること、生かされていることを当たり前に良きことと考えがちですが、実際にはいろいろなケースが存在します。・・・。
 今日の聖書では、イエスさまは、死を前にして、「栄光を受ける時が来た。」と言われました。イエスさまにとっては、「死」は栄光を受けることだと言われているのです。実際には、この後、十字架の苦しみを受けられることになります。そしてゲッセマネでは、汗が血の滴りのように地面に落ちるほどの苦しい祈りを通して、最後の決意を固められるのです。どれほどつらく、苦しい決断だったでしょうか。しかし、それなしには、多くの実を結ぶことはできなかったのです。
 24節には「一粒の麦」とあります。「麦」は、主食であるパンの材料になります。今まで、「一粒」に心を奪われていましたが、今回あらためて示されたのは、「麦」という最も大切な穀物だったという点です。日本では、米にあたります。そして、五穀とか十穀とか、さらに最近では十六穀までありますが、その中でもっともイスラエルの人びとにとって、大切な存在であった「麦」であるとイエスさまは言われたのかもしれません。だからこそ、そこからまた、大切な実が多く実るのです。
 私たちは、「麦」や「米」にはなれないかも知れません。しかし、粟(あわ)や稗(ひえ)、ここ岡山でいうなら黍(きび)になることはできます。26節にあるように、心からイエスさまに仕えるならば、神さまはその人を大切にして下さるのです。
 前に並んでいるお写真の方々、私たち児島教会の信仰の先達たちも、それぞれの実を結んで信仰の生涯を生きられました。そのおかげで今日の児島教会があるのです。先人からのバトンを渡された者として、この困難な時代を、忍耐をもって、粟か稗か、はたまたどんな実か分かりませんが、神さまが一人一人に備えて下さっている賜物を生かして、それぞれに実を結ばせていきたいと思います。
 そしていつの日か、私たちも天に帰る日が来たならば、すでに天上にあげられている姉妹、兄弟たちと逢いまみえ、自分の結んだ実を笑顔で報告できるように、地上での歩みをなしていく者でありたいと思います。

2016年11月6日 聖徒の日・召天者記念礼拝 笹井健匡牧師

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