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「悔い改め、立ち帰る」 使徒言行録3章17~19節

「悔い改め、立ち帰る」 使徒言行録3章17~19節
 
 昨日、岡山教会で教区部落解放講演会が行なわれました。あらためて、部落差別の現実を考えさせられるとともに、人類がその歴史を通して犯してきた、過ち、罪の重さを思わされました。
 神さまは、ノアの洪水の後、再び人類を滅ぼさない、と誓われ、そして、その後も罪を重ねた人類に対して、その罪を救うため、主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。
 今日の聖書は、「美しの門」として有名な箇所です。金銀は私にはないが、…イエスの名によって歩くように、ペトロが言った場面の続きです。癒された人を見て驚く人々に12節以下でペトロは説教をしました。自分の力や信心ではなく、16節にあるようにイエスによる信仰がこの人を癒したとペトロは言います。そしてあんなことをしたのは「無知」だったから、と言うのです。「あんなこと」とはもちろん主イエスを十字架に架けたことです。ペトロは、自分の経験からも、人々の「無知」をよく分かっていたのだと思います。
 「無知」は時に、人を冤罪に陥れ、命をも奪うのです。このことは、私たち日本人には、特に大切な戒めだと思います。
 しかし、それでは終わりません。18節にあるように、神の業であったのだとペトロは言います。驚くべきことですが、メシアは、苦しみを苦しみぬいたからこそ、救いの道を開かれたのです。
 私たちがなすべきことは、救われた者として、まず、神の前に、謙虚に、心から悔い改めること、そして神に立ち帰ることです。神に背を向け、忘れ、あるいは無知であった自分を懺悔し、まことの神に、神さまのもとに立ち帰るのです。
 現代は、世界中で、ますます混沌とした状況が広がっています。先行きが見えない。そんな中、危険なカルト集団が暗躍しています。そんな今の時代だからこそ、私たちはまず、自らがまことの神にしっかりと悔い改めて立ち帰り、主イエスにあって生きる者となりたいと思います。そしてむなしきものに誘われて行く、世の人々に、まことの神を示し、人間の本来の在り方、生き方を、正しい歩みを、主イエスに従ってなしていく者でありたいと思います。
 
2016年11月13日 降誕前第6主日礼拝 笹井健匡牧師

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