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「神の僕」 マタイによる福音書12章15~21節

「神の僕」 マタイによる福音書12章15~21節 
 
今日は、収穫感謝日、謝恩日です。収穫感謝は、直接的には食物の収穫を感謝するものですが、謝恩日と重なったことで、隠退教師たちの現役時代の働きを覚え、収穫は多いが、働きでが少ないと言われたイエスさまの言葉を思い起こす日でもあります。
 イエスさまは、まことの神であり、まことの人でありますが、決して「現人神」のような、偉そうな存在ではありません。それどころか真逆の「僕」なのです。イエスさまは、畏れ多いことですが、神に「僕」としてこの世に来られました。馬小屋に生まれられ、貧しい大工として働かれ、この世で生きるのが大変な人々のところへ行き、神の国の福音を宣べ伝え、病をいやされたのです。
 18節、21節に「異邦人」とあるのが少し奇妙な感じを受けますが、マタイの福音書では、イエスさまが宣教活動を始められたとき、4章15節16節で、異邦人のガリラヤ、という表現がされています。つまり、サマリアは言うに及ばず、ガリラヤも、外国の文化が相当流入しており、エルサレムを中心とするユダヤ地方に住むイスラエル人からすれば、異邦人同然であったのです。イエスさまもアラム語、つまりシリアの言葉を話しておられました。マタイにとっては、異邦人という言葉は、文字通り、外国人という意味もありますが、文脈によっては、「イスラエルの失われた羊」に似たような、神の羊の群れからこぼれそうな、人々、といった意味合いを持つ言葉だったのだと思います。
 しかし、イエスさまは、決してそんな、いわば傷ついた葦、くすぶる灯心のような人々を見捨てられない。さまざまな事情により、心に傷を負いながら生きている人々、また、ヤハウェへの信仰が消えそうになりそうな人々をこそ、イエスさまは救い、それらの人々の希望となられた方であるとマタイは記すのです。
 今の日本の私たちクリスチャンも、同じような状況ではないかと思います。クリスチャンであるがゆえに、不条理な傷を心に受け、また信仰が消え入りそうになることも多々あるのではないかと思います。しかし、イエスさまは、決して私たちを見捨てられない、信仰の灯を消されないのです。
 アドベントを次週に迎えようとするこのとき、もう一度、私たちの救い主である、主イエスは、神の僕としてこの世に来られ、もっと低きところから救いの業を始められた方であることを心に刻み、クリスマスを迎える心の備えを一人ひとりがなしていく者でありたいと思います。

2016年11月20日 降誕前第5主日礼拝 笹井健匡牧師

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