秋分の日を迎えました。
ローマの信徒への手紙において、パウロはキリスト教信仰について律法と福音を軸として11章まで、壮大に語ります。そして9~11章は、イスラエルの民の救いについて熱く語ります。今日の聖書は、その二つの言わばパウロの神学の最後の部分です。(12章からは信仰生活について語ります。)
イスラエルの民の救いについて、神の計画の深さについて感嘆の言葉を語ります。ごく簡単に言うと、もともと神が愛された民であったイスラエルですが、イエス・キリストを拒んでしまいます。それによって福音が異邦人世界にもたらされ、多くの他の民族が救いに預かることになりました。しかし、異邦人の救いが完成したならば、最後に再び、もともとの神の民であったイスラエルの民も、救いへと入れられて行く、とパウロは信じ、表明しているのです。
そしてパウロは、ヨブを思い起こします。神の思いは、人の知り得るところではないこと(ヨブ15:8)、また人が神に何かをプレゼントしたり、助言をしたりできるものではないことを(ヨブ35:7)、語ります。
そして最後に、すべてのものは、神から発し、神に帰ることを宣言するのです。この言葉はパウロの、おそらく霊的な体験を背景として出て来ているようにも思えます。普段あまり自身のそうした面を語らないパウロですが、コリントの
信徒への手紙二12章には、彼が第3の天にまで引き上げられた体験をしたことが記されています。日々、地上で現実的な厳しい宣教に勤しんだパウロですが、彼の心はある意味宇宙的広がりを持って、神を思い、イエスさまと交わっていたのかも知れません。
そしてこの「すべてのもの」の中には、もちろんイスラエルの民が入っているのです。もともとの同胞でもあり、かつてはファリサイ派に属し、熱心なユダヤ教徒であったパウロですから、家族・親族や、信仰の友、恩師ガブリエル(使徒22:3)等多くの愛する存在がありました。
春分や秋分という大きな節目に、大自然の営み、神の、そのスケールの大きさをあらためて肌感覚で感じながら、その恵み深さを思います。終わらない夏は、ないのです。
すべての源である神を思い、その神を信頼して共に歩み、天の神のもとへ向かって、1日1日を誠実に、大胆に生きて行く者でありたいと思います。
2024年9月22日 聖霊降臨節第19主日礼拝 笹井健匡牧師