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 みなさんの周りにも、「あの人はほんと欲がない人だ」とか、逆に「あいつはほんまに欲深い人間だ」という人がいるかも知れません。しかし、この「欲」というのはよく考えてみると、人間が生きて行くうえでの活力、エネルギーなのかも知れません。つまり「欲」そのものが問題なのではありません。
 今日の聖書のたとえは、有名な「愚かな金持ち」の話です。畑が非常に豊作だったと思われるこの金持ちは、考えあぐねた結果、今ある倉を壊してもっと大きい倉を建てることにします。すると、神さまは「今夜、おまえの命は取り上げられる。」と言われたのです。
 ではどうすれば良かったのでしょうか。豊作そのものはすばらしいことです。できるだけ多く蓄えようとすることも、ふつうの考えだと思われます。この人が、今ある倉に入るだけ蓄えたのなら、何も問題はなかったのかも知れません。さらに言うならば入らない分は、実際に額に汗して働いた労働者に分配すればよかったでしょうし、またその日の食べ物にも事欠いていた人々に、施しをすればなおよかったのかも知れません。しかしこの人は、自分の事だけを考え、自分のためだけに豊作の作物を用いようとしたのです。つまり、がめた、のです。
 最初、この人が豊作を経験した当初は、ただの欲だけだったのかも知れません。しかし、それが思いめぐらすうちに、他者にあげるとか、施すとかそうしたものはまったくなく、自分のためにより大きな倉を建てる、という結論に達しました。ここに貪欲、文字通り、欲を貪る心があります。
 このたとえ話だけを聞いていると、どこか他人事のような気になってしまいますが、イエスさまはこのたとえ話を話される最初に「どんな」貪欲にも気をつけるように言っておられます。きっかけも「遺産」の問題でした。
 最初に言いましたように、欲そのものは必要なものかも知れません。しかし足ることを知り、理性的にコントロールすることが必要だと思います。貪るようになると結局は自分自身の命を失うことになるのです。
 最後にイエスさまは神の前に豊かになるように勧めておられます。富を天に積む生き方をこそ私たちは為して行きたいと思います。克己の生き方は、貪欲を克服し、富を天に積んで行く生き方、歩みなのだと思います。
 共に最後まで、受難節を歩みきることができるよう、祈り合いながら信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年3月24日 受難節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

 私たちはだれでも幸福になりたいと思っています。また周りの人たちも幸せであるように、とふだんは思っています。しかし、そんな私たちの思い、願いとは、源をたどれば現実の人生において幾多の苦難があるからかも知れません。
 言い方を変えれば、いろいろな苦しみ、悲しみ、痛みのある人生を、どのようにして生き抜いて行くのか、そこで登場するのが希望なのかも知れません。
 今日の聖書は、非常に有名な個所です。苦難が最終的に希望を生む、とパウロは言うのです。単に、理論的な言葉ではありません。彼自身が何度も何度も死ぬほどの苦しみを乗り越えて生きて来たからこその言葉です。だからこの言葉は非常に説得力があるのだと思います。
 前後を見てみますと、1節には「神との間に平和」が得られていることが記されています。それまで神に背き、あるいは反抗して、無視して生きて来ていたとしても、イエス・キリストを信じる信仰によって、神さまとの間は平和にされているのです。
 5節にはその神さまから、愛が注がれていることが記されています。私たち信仰者は、神さまと平和な関係にあり、そして神さまからその偉大な愛を注がれている存在なのです。
 しかし、苦難から一足飛びに希望へと至るわけではありません。まずは忍耐をしなければなりません。これは意外と口で言うほど簡単ではありません。さらにその先には、忍耐を続けることによって、練達に達しなければなりません。忍耐しつづけ練達にまで、というのはさらに大変だと思わされます。しかしその先に希望が待っているのです。
 今の状況が、たとえどんなに困難に思えても、神さまを信じ、イエスさまに従って、その、言わば自分の十字架を背負って行くならば、必ずその先には希望があることを、困難から希望へと変えられることを覚えていたいと思います。
 受難節のこの時、少しでも克己の生活を送り、イースターの日を喜びを持って迎えることができるように、希望を持って歩んで行きたいと思います。

2019年3月17日 受難節第2主日 笹井健匡牧師

 受難節第1主日を迎えました。イースターを迎えるまで、イエスさまの十字架への歩みを心に抱きながら礼拝をささげて行きたいと思います。
 マタイ、マルコ、ルカの福音書には3度の受難予告が記されています。今日はその第1回目、最初の予告をマタイから学んでみたいと思います。
 ご存知のように、この受難予告は、ペトロの信仰告白を受けて、イエスさまが語られました。マタイでは、いわゆる「天国の鍵」が記されています。カトリックでは非常に重要な聖書の個所になります。しかし私たちプロテスタントでは、万人祭司の立場をとっていますので、18章18節の「あなたがた」の方を重要に考えます。いずれにしても、この時の弟子たちの「メシア」理解は間違ったものでした。だからこそ、今日の22節で、「とんでもないこと」という言葉が出たのです。そしてイエスさまからこれ以上ないきつい言葉「サタン、引き下がれ。」という言葉を言われたのです。
 私たちはこの後のことを知ったうえで、信仰を持ってこの個所を読んでいますので、まだいいのですが、当時の弟子たちにしては、この時のショックは相当大きなものだったに違いありません。この方こそ来たるべきメシア、偉大な方、そう信じて、すべてを捨ててイエスさまに従って来ていたのです。それが、あろうことか「殺される」と言われたのです。
 もし自分がこの時その場にいたら、と思うと「それはないですよ。あんまりじゃないですか。」と言ったかも知れません。
 イエスさまは小出しにすることなく、いきなりずばっと予告をされたのです。ご自身の決意の強さを示そうとされたのかも知れません。24節の有名な「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉は弟子たちにとっても大変重い言葉であったはずです。しかし、彼らはその言葉の重みを理解することはできませんでした。2度目、3度目の受難予告を聞いてもそうでした。
 福音書は、このイエスさまの最初の予告から「受難」の色彩を強くしていきます。まだ4日、10分の1しか克己の日々を歩んでいませんが、十字架への道を知る者として、この受難節のときを少しでもイエスさまの苦しみを自らの苦しみとしながら、自らの弱さに打ち勝って歩んで行きたいと思います。

2019年3月10日 受難節第1主日 笹井健匡牧師

 今年は降誕節が長く、本来ならうれしい時をずっと過ごせると考えていたのですが、人間の思いと神さまの思いは、やはりちがったようです。
 6日(水)には、レント(受難節)に入ります。「灰の水曜日」と呼ぶわけですが、今年はその「灰」の背景にある、イスラエルの民の苦難に思いを寄せてみたいと思わされました。
 今日の聖書はエステル記です。「エステルの勇気」が民族の危機を救った物語ですが、そこにいたるまでには悲痛な苦しみ、心の叫びがあったのだと思います。
 イスラエルの民は旧約の時代を通して、大国の中で多くの困難を経験した民でした。一番の出来事は、あの出エジプトです。あのときも、神さまはイスラエルの民の心の叫びを聞き、後にモーセを召して、エジプトから救い出す、という大きな業を為されたのです。
 今回は、バビロン捕囚後もバビロン、この時にはペルシャになっていましたが、そこに住み続けたユダヤ人の危機が背景になっています。7節にありますが、その街に住むすべてのユダヤ人を絶滅させる、という陰謀がすすめられようとしていたのです。そのことの一部始終を知ったエステルの養父モルデカイは灰をかぶり、叫び声をあげたのです。他のユダヤ人たちも同じように、灰の中に座り、悲嘆にくれました。モルデカイはエステルにこのことを知らせ、エステルは一度は無理だと断りますが、最終的に、命がけで王に直訴することになります。そしてユダヤ人を救ったのです。
 エステルの勇気ある行動の前提に、「三日三晩断食」(4:16)というのがあります。この断食は、言わば神さまへの直訴だと言うことができると思います。心の叫びを、時に自らの罪を悔い改めながら、神さまに救いを求める行為なのだと思います。そしてその人間の、心からの叫びを、神さまは聞いてくださり、救いの手を差し伸べてくださったのだと思います。
 私たちもどうしようもない苦しみ、絶望に出会うこともあるかも知れません。しかし、そのとき心からの叫びを神さまに向かってあげる者でありたいと思います。人間ではなく、神さまにこそ助けを求めるのです。
 受難の道を一歩一歩歩んで行かれるイエスさま、最後の最後まで神さまを信頼し、心の叫びをあげつつ歩まれたであろうイエスさま、そのイエスさまにこそ私たちは従い行く歩みをこのレントのとき、為して行く者でありたいと思います。

2019年3月3日 降誕節第10主日 笹井健匡牧師