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「最初の予告」  マタイによる福音書16章21~28節

 受難節第1主日を迎えました。イースターを迎えるまで、イエスさまの十字架への歩みを心に抱きながら礼拝をささげて行きたいと思います。
 マタイ、マルコ、ルカの福音書には3度の受難予告が記されています。今日はその第1回目、最初の予告をマタイから学んでみたいと思います。
 ご存知のように、この受難予告は、ペトロの信仰告白を受けて、イエスさまが語られました。マタイでは、いわゆる「天国の鍵」が記されています。カトリックでは非常に重要な聖書の個所になります。しかし私たちプロテスタントでは、万人祭司の立場をとっていますので、18章18節の「あなたがた」の方を重要に考えます。いずれにしても、この時の弟子たちの「メシア」理解は間違ったものでした。だからこそ、今日の22節で、「とんでもないこと」という言葉が出たのです。そしてイエスさまからこれ以上ないきつい言葉「サタン、引き下がれ。」という言葉を言われたのです。
 私たちはこの後のことを知ったうえで、信仰を持ってこの個所を読んでいますので、まだいいのですが、当時の弟子たちにしては、この時のショックは相当大きなものだったに違いありません。この方こそ来たるべきメシア、偉大な方、そう信じて、すべてを捨ててイエスさまに従って来ていたのです。それが、あろうことか「殺される」と言われたのです。
 もし自分がこの時その場にいたら、と思うと「それはないですよ。あんまりじゃないですか。」と言ったかも知れません。
 イエスさまは小出しにすることなく、いきなりずばっと予告をされたのです。ご自身の決意の強さを示そうとされたのかも知れません。24節の有名な「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉は弟子たちにとっても大変重い言葉であったはずです。しかし、彼らはその言葉の重みを理解することはできませんでした。2度目、3度目の受難予告を聞いてもそうでした。
 福音書は、このイエスさまの最初の予告から「受難」の色彩を強くしていきます。まだ4日、10分の1しか克己の日々を歩んでいませんが、十字架への道を知る者として、この受難節のときを少しでもイエスさまの苦しみを自らの苦しみとしながら、自らの弱さに打ち勝って歩んで行きたいと思います。

2019年3月10日 受難節第1主日 笹井健匡牧師

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