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「ガリラヤ湖のほとり」 マルコによる福音書1章16~20節

「ガリラヤ湖のほとり」 マルコによる福音書1章16~20節

 昨年は、深山公園で、山に囲まれた中で、野外礼拝を行いました。今年はこの渋川海岸で、瀬戸内海のそばで野外礼拝をできることを神さまに感謝します。
 しかし、実を言いますと、海のない京都で育ったわたしには、海水浴と言えば琵琶湖でした。向こう岸がほとんど見えず、まるで海のようでした。今治時代、伊予小松時代も、愛媛県から見る瀬戸内海は、海のように広いところでした。正直に告白しますが、こちらに来て、いまだにこの瀬戸内海を見ていると、湖にしか見えません。
 昨年だったか、やはりシーズンオフに平島禎子牧師と二人で砂浜を歩きました。今日の聖書のイエスさまは、たったひとりでガリラヤ湖のほとりを歩いておられたのです。イエスさまにとってガリラヤ湖のほとりは、どういう場所だったのでしょか。以前もお話したように思いますが、今日の聖書の前のところで、イエスさまはヨハネに代わって、福音を述べ伝えられたことが記されています。ガリラヤの村々、町々を巡られ、福音を当時の社会で一番厳しい状況に置かれていた人々に、ひとりで、語られたのだと思います。しかし、何らかの問題があったんだと思います。だからこそ、この後どうすれば良いか、考えながらガリラヤ湖のほとりをひとり歩いておられたのだと思います。そのとき、神さまはイエスさまに4人の漁師を指し示されたのだと思います。彼らは「すぐに」イエスさまに従いました。
 ガリラヤ湖のほとりは、イエスさまにとって、「山」と同じように、神さまと対話する「場」だったのだと思います。波の音を聞きながら、吹いて来る風を感じながら、神さまと静かに語らわれた、そして漁師との出会い、それがこの後、イエスさまの宣教活動を大きく進展させて行くことになるのです。
 私たちも神さまが創造された大自然の中で、それぞれの神さまとの対話の「場」を持ちたいものだと思います。そして、日常を少しだけ忘れ、神さまのことを思い、自分の人生を思い、自然に癒され、新しい力を与えられて、また日常の歩みへと戻っていく、少しだけ新しい、元気な自分になって・・・。
 神さまが、わたしたち一人ひとりを豊かに愛し、さまざまな必要なものを与えて下さっている、その大きな恵みに感謝し、信仰の歩みを続けていく者でありたいと思います。

2016年10月30日 野外礼拝(渋川海岸) 笹井健匡牧師

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