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「心が燃える」 ルカによる福音書24章13~35節

 今日の聖書には、エマオ途上の話です。十一弟子以外の二人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かった時に起きた出来事が記されています。二人は道すがら、イエスさまが十字架上で処刑されたこと、その三日後の朝、イエスさまを葬った墓は空であり、そこには天使がいて、「イエスさまは生きておられる」と言ったということの不思議さについて、あれやこれやと論じ合いながら、歩いていました。そのような二人にイエスさまが近づいてこられ、一緒に歩き始められました。しかし、二人の目は遮られて、イエスさまだとはわかりませんでした。イエスさまが二人に、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」(17節)と訊かれました。すると、二人は「暗い顔をして」(口語訳聖書-悲しい顔をして)立ち止まりました。二人はとても悲しかったのです。二人は、話の中で、イエスさまが力のある「預言者」であり、イスラエルを(ローマから)解放してくださると望みをかけていた方であった、と言いました。この二人を始め、弟子たち、大勢の人たちは、イエスさまがこの世の王となる人だと思っていたのです。イエスさまは、二人の話を聞かれて、「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(25、26節)と言われました。そして、聖書全体に渡りご自分について記されていることを語られました。特に、イザヤ書53章の主の僕の苦難と死について詳しく語られたのではないかと思います。

 そうしてエマオに着くと、二人はなお先に進もうとされるイエスさまを無理に引き止めました。そして、家に入って一緒に食事の席に着いた時、イエスさまはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになりました。そうすると、二人の目は開かれ、その人がイエスさまであるということがわかりました。すると、イエスさまの姿は消えてなくなりました。しかし、二人はただただ、喜びに満たされました。復活のイエスさまが自分たちに現れてくださった。振り返って考えると、イエスさまが聖書の話をされていた時、私たちの心は燃えていたではないか、と言ったのです。

 復活のイエスさまに出会うということは、「心が燃える」ほどの出来事です。それは、心の内側が熱くなり、メラメラと火が燃え上がるような感情です。このエマオ途上の二人は、エルサレムからエマオへと悲しみの中で、論じ合いながら歩いていましたが、主イエスが現れ、聖書の話を聞いた時、心が燃える経験をし、そのことが、主イエスとの食事の時に分かり、時を移さず、急いでエルサレムに帰るということをしました。この時も、二人の心は燃えていたのであろうと思います。

イエスさまの復活は、心が燃える出来事です。私たちも、心を燃やし、時を移さずして、行動をなしていく者でありたいと思います。復活の主イエスさまに出会い、信仰をもって、なすべき務めをなしていく者でありたいと思います。

    2023年4月16日 復活節第2主日 平島禎子牧師


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