• 記事検索

RSS

「老いを生きる」   テモテへの手紙二4章6~8節

 人生を四季に例えるならば、やはり高齢の時は、冬に例えられるでしょう。どんな時代もそうだったかも知れませんが、しかしつい最近までは、高齢であることは、人生の多くの知識と知恵を持った、また様々な経験をしてきたがゆえの揺るがない「何か」をもった存在だったように思います。共同体の精神的支柱であったと言っていいのかも知れません。しかし合理性だけが追及される現代にあってはその様相が様変わりしたように思います。
 今日の聖書の著者パウロはご存知のようにもと迫害者でした。180度違う伝道者としての歩みはそれはそれは大変なものだったと思います。しかし彼は立派にその歩みを走りとおして来ました。そして大変高齢になり、世を去る時が近づいたというのです。過去の自分は完全に昇華し、まったく違う人生を見事に生き抜いた、という自負が強く感じられます。しかしそれはすべて復活の主の恵みによるものでした。
 病院や、施設に行く機会が多く与えられたおかげで、多くの人々の、人生の冬の時を共有させていただきました。そこから思わせられたのは、最後まで希望を持ち続け、また主を待ち望む信仰を持ち続ける人の強さとやさしさです。信仰者はどんな状況におかれてもその場で主を賛美し、待ち望んで生きることができます。そして周りの人々を照らすことができるのです。
 私自身は、秋の終わりごろを生きているのでしょうか。冬が近づいているのを感じることが多い昨今です。しかし実りの秋に多くの実を実らせ、自信を持ってパウロのように冬を迎えることはできそうにありません。しかし私自身に決められた道を最後まであきらめずに一歩一歩歩いて行きたいと思います。そして天上に挙げられた信仰の先輩たちに少しでも近づけるよう、老いを生きる姉兄とともに、老いを生きる意味と重さを共有しながら信仰の道を歩んで行きたいと思います。

2019年9月15日 聖霊降臨節第15主日礼拝 笹井健匡牧師

コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):