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「縛られない信仰」  コロサイの信徒への手紙2章~20~23節

 私たちが生きている社会は、いわゆる法治国家です。それは別の面からみれば管理社会である、という側面を持っています。理に適った管理、それは高度に文明化した社会ではやむを得ないというより、必要なことです。もちろん監視社会となると話は別ですが。
 しかし私たちの内面、心はできる限り自由でいたい、空を飛ぶ鳥を見るたび、またイエスさまの在り方を思うたびそう思います。しかし現実には心、内心も様々なものに縛られているのが実際のところです。
 キリスト教は、ユダヤ教と決別して行く過程で、それまでの様々な戒律、規則と決別して行くことになりました。もとを正せばイエスさまの宣教活動の中に、すでにユダヤ教が神の戒めを忘れ、人間の言い伝えを守っていることが批判されています。(マルコ7章)
 今日の聖書、21節「手をつけるな。味わうな。触れるな。」ではちょっと抽象的で分かりにくいですが、少し前の16節以下を見るとよく分かります。それまでの飲食に関する規定や、ユダヤ教の祭り、新月(ガラテヤ4:10)、そして大きかったと思われるのが安息日です。
 初期のクリスチャンたちは、試行錯誤しながら、イエス・キリストの福音に関係のないものをそぎ落としていったのだと思います。それは言わばクリスチャンたちがユダヤ教から独立し、自由になることでもありました。パウロの手紙等にも何回も、ユダヤ教に戻りそうになるクリスチャンたちへの叱咤激励が記されています。
 今日の聖書では非常に辛辣に書かれていますが、ユダヤ教時代の昔から守って来たものは、結局は、人の規則や教えによるものであり、知恵のあることのように見えても何の価値もない、と言い切るのです。そんなものに縛られないで、福音を信じてキリストを仰ぎ見て生きよう、と。この世を越えた真理を見つめて生きて行こうと促しているように思います。
 現代、様々な規則の中で生きている私たちは、ともすれば心まで不自由になってしまいがちです。しかし神さまの目からみればこの世の事柄はどのように映っているでしょうか。
 イエス・キリストを信じる者として、何者にも縛られない信仰を持って、この世での歩みを自由にすすんで行く者でありたいと思います。

2019年9月8日 聖霊降臨節第14主日礼拝 笹井健匡牧師

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