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「最初の誘惑」 マタイによる福音書4章1~11節

 今年も受難節を迎えました。レントの時、克己の時、自らの弱さに打ち勝つことができるように、今日は有名な「荒れ野の誘惑」から学びたいと思います。

 第1の誘惑は、空腹の状態、しかも40日間というものすごい空腹を覚えておられるイエスさまに、石をパンに変えよ、というものでした。イエスさまはそれに対して、人は神のみ言葉によって生きるのだ、と答えられました。食欲という根源的な欲求を用いての誘惑でした。しかし、「パン」というのは、当時は大変貴重なもの、そして富の象徴のようなものでした。そう考えるとこの悪魔の誘惑は、神か富か、の誘惑ととらえることもできます。イエスさまは、富の誘惑に打ち勝ち、神の言葉を、そしてそれを宣べ伝えることを選ばれたのだと読めます。

 第2の誘惑は、これから宣教を始められるイエスさまに対して、神を試せ、というものでした。つまり、本当におまえの宣教を神は守り導いてくださるのか、大丈夫なのか、始める前に、しっかりと確かめておいたほうがいいぞ、と悪魔はささやいたのだと思います。しかも聖書の言葉を引用して。イエスさまは同じく聖書の言葉によって、見事に反論されました。確たるしるしを得てから、信じて行動するのが信仰ではなく、信仰とはまだ見ぬことを、先にみ言葉を信じてから行動していくこと、そうして歩んで行く時、神は必要なしるし、奇跡を起こして下さる、と言われたのだと思います。

 第3の誘惑は、人々に教えを宣べ伝えたいなら、ローマ皇帝のように、いやそれ以上の、世界の王になったらどうだ、というものでした。すべてはおまえのものなのだから、すべての民に命令して、教えればいい、と。悪魔を拝むというのは、悪魔に魂を売ること、権力という悪魔的な力にひれ伏すことです。主なる神にのみ仕えることをイエスさまは宣言されました。それは権力による宣教ではなく、愛によって、仕えていくことによって、まことの神のみ言葉、み心を、自ら体現していく宣教でした。行く先には、この世の権力が暴力的な猛威をふるう、十字架が待ち受けていました。

 私たちの主、イエスさまは、このようにして、最初の誘惑に打ち勝たれました。そしてその後の宣教活動によって、神の、私たち人間に対する愛をこれ以上なく表してくださいました。

 私たちも、この世で様々な誘惑があります。このレントの時、少しであっても、どんなに小さくても、自らの弱さに打ち勝つ克己の歩みを、十字架の主イエスに従って続けて行く者でありたいと思います。

 2024年2月18日 受難節第1(復活前第6)主日礼拝 笹井健匡牧師


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