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「信じ、祈る」 マルコによる福音書11章20~25節

「信じ、祈る」 マルコによる福音書11章20~25節

イエスさまが生きておられた社会は、ローマに支配されていたイスラエル社会であり、搾取や不正がまかり通っていました。そのイスラエル民族の唯一のアイデンティティーと言ってもよい「ユダヤ教」の在り方も腐敗していました。そのような社会に対してイエスさまが憤られたことが今日の聖書を含む11章12節から25節までに記されています。それは、イエスさまがエルサレムに入城された翌日と翌々日のことでした。

イエスさまがいちじくの木を呪われたということが記してあります。旧約聖書には、いちじくはイスラエルを象徴するものであると記されています。(エレミヤ8章13節)いちじくの木に実がなく葉ばかりが繁っている状態というのは、表面的には神を信じ、正しく生きているように見せかけてはいるが、実のない状態、つまり神への信仰がない状態であることを意味しています。イエスさまはエルサレム神殿へ行き、いわゆる「宮清め」をされました。『祈りの家』(イザヤ56章7節)であるはずの神殿が『強盗の巣』(エレミヤ7章11節)になっていることに憤られたのです。翌日再びエルサレムへ行かれたとき、昨日呪ったいちじくの木が根元から枯れていました。そのことを弟子たちがイエスさまに告げると、「神を信じなさい。」(22節)と言われました。神を信じるということは、「山が海に飛び込む」というような、絶対にありえないことでも、それを信じるならばそのとおりになる、と言われたのです。(23節) そして、祈りについてイエスさまは語られました。「信仰と祈り」は切り離すことができないものです。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(24節)とイエスさまは言われました。祈り求めることとは、自分の欲望を満たすものであってはなりません。神さまの前に正しいことを求める時、祈りは聞き入れられるのです。そして、自分も過ちを犯す存在であることを知り、その過ちを神さまは赦してくださるということを覚え、祈る時には、恨みに思う人を赦しなさい(25節)と言われるのです。

様々な問題のある私たち、そして、私たちの社会でありますが、絶対的な信仰をもって祈るならば、その祈りは聞き入れられるのです。「信じ、祈る」ことにより、絶対不動であると思っていた山が動くような出来事が起きるのです。現代の日本の政治は危ういことが多すぎるように思います。このままでいいわけはありません。必ず日本の在り方、世界の在り方が良き方向へ変わるということを、「信じ、祈る」ことが大切であろうと思います。山のように動かないものを動かす、海に飛び込ませる、そのような祈りをなしていく者でありたいと思います。

2017年3月19日 受難節第3主日礼拝 平島禎子牧師

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