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「真の幸い」  ルカによる福音書6章20~26節

 私たち人間の多くは、幸せを望み、不幸をできるだけ遠ざけて生きている存在です。しかし、現実の人生では、なかなか思うようにいかないのも、また現実です。イエスさまの時代の人々はどうだったのでしょうか。少なくとも聖書を読む限り、日々の暮らしが相当大変だったのは間違いないようです。そんな中イエスさまは誕生し、人々の前に登場されたのです。
 今日の聖書は、マタイ福音書の「山上の説教」に対して、平地、平野の説教と呼ばれているところです。17節に、山からおり、平らな所に移動されたことが記されています。
 23節までの前半は、マタイの山上の説教と通じる内容ですが、後半はマタイにはありません。おそらくマリアの賛歌に始まるルカの福音書に特徴的な要素がこの24節以下の後半をセットにしたのではないかと思われます。
 イエスさまは、弟子たちに言われた、と20節にありますが、弟子たちの後ろには、イスラエルとその周辺地域からやって来ていた大勢の民衆がいたのです。
貧しく、日々の生活に困窮し、また病に苦しんでいただろうと思われます。そんな人々に対してイエスさまは、前半の「幸い」という言葉を投げかけられたのです。人間的に見れば、悲惨な状況に見える、そういう現実を生きている人々に対して、いやそんな中救いを求めてイエスさまのところへやって来た人々に対して、「幸いだ」と言われたのだと思います。厳しい現実の中にあっても希望を捨てず、こうして今、イエスさまのところに来ている、そんな神への信仰をもって貧しくとも誠実に懸命に生きていた人々に対して「幸い」と言われたのです。
 それに対して、後半の言葉は、実際にはそこにいない、多くの富んでいる人々に対して語られた言葉のように私には思われました。神のことは二の次で、日々の生活において、贅沢に、笑って、楽しく暮らしている人々に対して、今享受している「幸せ」と思っているものは、表面的なものであり、その本質は「不幸だ」とイエスさまは言われたのです。イエスさまは、人の心の奥深くを見つめて、この一連の言葉を言われたのだと思います。
 最初に言いましたように、私たちも「幸せ」を求めて生きる者ですが、大切なのは、そこに神さまに対する信仰、信頼があるかどうか、そしてもっと言えば、神さまと隣人に対する愛があるかどうか、ではないかと思います。たとえ貧しくとも神さまの愛に生かされ、イエスさまに従って、隣人を愛して生きて行くならば、その人生は真の幸せな人生ではないかと、私は思います。

2020年1月26日 降誕節第5主日礼拝     笹井健匡牧師

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