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「今という時」  ルカによる福音書12章54~56節

 私たちすべての人は、今という時を生きています。それは過去の生きて来た時の積み重ね、延長線上にある今です。そして私たちの前には未来が待っています。それはだれにもわからない、不確定な時です。しかし今どう生きるのかによって未来はいかようにもなるのではないかと私自身は思っています。
 今日の聖書は、イエスさまが群衆に言われた言葉です。直前のところまでで、イエスさまは弟子たちに対して厳しい言葉を語られています。そして今日のところでは、群衆に対しても厳しさが感じられる言葉を用いておられます。
 12章のはじめに、ファリサイ派の偽善に気をつけるように言われたイエスさまですが、ここでは、群衆に対して「偽善者よ」と言われるのです。イエスさまは、人々が経験から多くのことを学んで来て、「天気」の変化の予兆をも知っていることを指摘された後、今という時、今がどんな時なのかなぜ知らないのかと言われるのです。「偽善者よ」という言葉と重ね合わせると、「…知らないのか」という言葉の後に、「いや実は知っている、知っているはずだ」という言葉が、無言のうちに続いているようにも思います。
 本当は知っているのに、心の深いところでは分かっているのに、知らないふりをする、あるいは知ろうとしない、その態度、現実を直視しないその在り方に対して「偽善者」という厳しい言葉を投げかけられたのかも知れません。
 イエスさまの登場に、当時の人々は戸惑い、困惑し、今いったい何が起きているのだろう、と思ったのかも知れません。そしていろんな人に意見を聞いて回ったりしたのかも知れません。57節には、「何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われています。あの人が言ったから、この人が言うから、と人の判断に従っていると、自分は無責任でいられます。楽なのです。
 私たちは、イエスさまのことを自分で判断しなければいけません。というより、自分で救い主と信じて、信仰を告白して、クリスチャンとして生きています。そうであるなら、今という時がいったいどんな時であるのか、このことについても神さまに祈りながら、聖書に聴きながら、やはり自分で判断しなければいけないと思います。
 神さまから、そしてイエスさまから自由を与えられている私たちは、たとえどんなに大変であっても、困難な状況であっても、信仰をもって今と向かい合い、そして必ず道は開かれることを信じて歩んで行きたいと思います。

2020年3月8日 受難節第2主日礼拝      笹井健匡牧師

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