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「平和を実現する」   マタイによる福音書5章9節

 今日は平和聖日です。いわゆる「戦責告白」が出されて、半世紀以上が過ぎました。「告白」にはすでに私たちの国が再び憂慮する方向へ、つまり戦争への道を歩み始めていることが記されています。多くの人々の努力と祈りにより、今日まで戦争しなかったことを、いやできなかった、させなかったことをとりあえずは喜びたいと思います。しかしその陰で多くの世界の戦争に在日米軍の基地、特に沖縄の基地が使用されて来ました。そしてその戦争から来る特需の恩恵を受けて経済発展して来たのも事実です。今も多くの武器を製造し、輸出しています。
 いろいろ暗い部分はあるのですが、それでもとにかく戦争だけは直接して来なかったのです。そこには「あきらめない」、つまり平和をあきらめない、という強い思いがあったのだと思います。戦争だけはもうこりごりだと。しかし世代が変わるとそこもあやうくなっているように思います。
 歴史を見ると、権力者、支配者は、なんだかんだと屁理屈をつけては戦争をし、その利益を得ようとしています。大きな流れが出来上がってしまうと、もはやだれにも止めることはできないのかも知れません。しかし戦争の芽、つまり悪の芽は小さいうちなら私たちにも摘むことができるかも知れません。
 今日の聖書でイエスさまは、8節までは、貧しくとも神を信じ、誠実に生きている人々に対する愛にあふれた言葉を繰り返されているように思います。しかし、9節の平和の実現からは、この世から迫害される厳しい信仰者の生を語られているように思えます。つまり9節の平和の実現と、10節以下の「迫害」は切り離せない、ということです。イエスさまは預言者たちを中心とした、この世に真の平和をもたらそうとして、そのために苦しい人生を送った先達たちに思いを馳せられながら、やがてご自身もその荊の道を歩むことを思っておられたのかも知れません。
 これから私たちの国が戦争への道を歩んで行くとき、わたしたちは指をくわえて見ているのでしょうか。声を上げることができなくても、祈ることだけはできます。そして平和をあきらめない祈りを続けて行くことが、唯一できることであり、それこそが最終的に平和を実現して行くのかも知れません。不透明なこの時代を救い主イエス・キリストをしっかりと見つめながら、平和への祈りを熱くしていく者でありたいと思います。

2019年8月4日 平和聖日(聖霊降臨節第9主日)礼拝 笹井健匡牧師

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