戦争や災害の時、直接的な苦しみは、もちろん非常に大変です。しかし実は、より深刻なのは、心の被災です。恐怖や不安に長期間苛まれると、次第に私たちはその心の健康を害して行きます。そんな中、祈り、特に近しい関係にある人々の祈りは、大きな力を発揮します。ヤコブの手紙の最後には、そんな祈りの力が雄弁に書かれています(ヤコブ5:13~16)。
今日の聖書は有名な「主の祈り」のところです。「祈り」というと「行い」と対比して考えがちですが、もともとユダヤ教では「祈り」は行為でした。6章の1節から18節は一塊になっていて、「施し」「祈り」「断食」という3つの善行を記しています。もともと偽善者という表現がされている「ファリサイ派」の人々が念頭に置かれています。そこに7~15節の「主の祈り」に関する教えが挿入されているのです。相手も偽善者から異邦人に代わっています。9~13節の『』の部分が主の祈りの原型です。非常にシンプルです。出だしは当時礼拝の終わりにアラム語で祈られていた「カディシュ」の祈りからとられているそうです。それに食べ物と「赦し」に関することが加えられています。
つまり、祈るときは、隠れて(人知れず)、そして端的に短く祈れ、とイエスさまは言われているのです。そして教えられた祈りの中心は、14・15節にもあるように、「赦し」についてであると思います。5章の終わりには「愛敵」の教えがあります。敵を愛するには、まず、その敵を赦すことが必要だからです。赦すことができて、はじめて心から愛することができるのです。
不安や恐れが長く続くと、人は疑心暗鬼になったり、不要な意見の対立を起こしたりしがちです。そうなると、祈り自体も、閉鎖的になったり、自己目的的になったりします。しかしそれでは、そんな祈りでは、その本来の力を発揮することができません。大変な時だからこそ、自分だけではなく、他の人々も大変であることをしっかりと思いましょう。
他者を赦し、そして愛をもって祈る者となりたいと思います。イエスさまも私たちのことを覚えて祈って下さっています。愛に満ちた祈りが集められて行く時、愛の波は非常に大きな祈りの力となって、この地に、私たちに救いをもたらすことができるのではないかと思います。
主が教えて下さった祈りの力を信じて、心を高く上げ、共に助け合いながら、この時を歩んで行く者でありたいと思います。
2022年2月6日 降誕節第7主日礼拝 笹井健匡牧師