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「探しもの」 マタイによる福音書7章7~12節

「探しものは何ですか。」という流行歌のフレーズがあります。政治の季節の終わりを象徴した「あさま山荘事件」の翌年に流行りました。戦後日本は、新しい道、生き方を求めて、それなりに「熱く」歩んでいたのだと思います。そして「夢の中へ」(良い夢か悪い夢かは分かりません)とすすんで行きました。人々はいつも「何か」を探していたのかも知れません。

教会学校の教師をしていた頃、よく話していたのは、結局「自分探し」だったのかも知れません。もちろん、イエスさまについて話す訳ですが、その中に、それで、みんなはどう生きますか。何を探して生きて行きますか。そのような問いを発しながら話していたように思います。自己実現とか、なぜ生きるのかとか、自分とは何者かとか、そういうことがテーマでした。若い頃の、特権だったのかも知れません。人間の生にとっては「探しもの」はなくてはならないものなのかも知れません。

今日の聖書にも、「探しなさい。そうすれば、見つかる。」と記されています。最後のまとめにあるように、ユダヤ人たちは律法と預言者を尊重し、そしてそこにこそ、神、真実、永遠の命等の答えがあるとして、研究していました。それは言わば「宝さがし」でした。

イエスさまは他のところで、旧約の中心は、神への愛と隣人への愛だと教えられています。12節の言葉は隣人愛を平易に表現したものです。旧約時代には、「人からされて嫌なことは人に対してもするな。」と言われていました。マタイはそれを前向きに言い換えたのです。積極的にどんどん良いことをしなさいと。

パウロはさらにすすめて、コリント一10:24では「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい。」と言っています。実は、この聖句は口語訳ですが、私が洗礼を受けたときにいただいた聖書に書かれていた聖句です。自己中なわたしにとって、信仰生活の目標、道しるべとなりました。少しずつ、他者の事を考え、思うことができるように導かれて来ました。

みなさんもそれぞれの人生において、いろいろなものを探して生きて来られたのではないかと思います。クリスチャンである私たちは、イエスさまを見つけました。私たちが見つけた「探しもの」は、見つけて終わり、ではなく、そこから共なる歩みがスタートして行く、共に生きる、「宝」です。そのイエスさまと一緒に、これからも新しい何かを探して、歩みをすすめて行きたいと思います。

 

2022年2月20日 降誕節第9主日礼拝 笹井健匡牧師


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