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「主の平和」 ミカ書4章1~3節

 今日は平和聖日です。くしくも広島の日になりました。隣の県に来て10年目になりますが、なぜか以前より、遠く感じてしまいます。

 今日はまた、新見教会の会員だった田中郁子姉の召天日です(2年前)。平和について多くの詩を残されました。その遺志を継いで行きたいと思います。

 今日の聖書は、平和を語る時、用いられることの多い聖書の個所です。通常は、イザヤ書2章の方を用いることが多いです。

今回、平和聖日にあたり、あらためて二つの預言書を読み比べてみて、新たな発見がありました。どちらがオリジナルか、とかについて所説ありますが、有力なのは、イザヤとミカが、「同じ古い預言」を取り入れた、というものです。そして実は、その預言よりもさらに古い預言がヨエル書にあります。「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。」(4:10)です。ヨシュア記(侵略に次ぐ侵略の歴史)などを見ていると、もともと最も古いのは、ヨエル書にある、戦いに民を招集する際に、農具を武器に変えるよう呼び掛けるものだったことが容易に想像できます。それが、後の時代、預言者たちによって、武器を農具に、とひっくり返されたのだと考えられます。

 神が、その平和を実現される時、イザヤでは「国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。」(2:4)と抽象的な表現になってしまっていますが、ミカでは「はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。」と、より具体的に表現されています。ミカにおいては、神が戒められるのは、イスラエルの脅威であった、アッシリア、そしてエジプト等の列強国です。戦争の責任が「強い国々」にあることを、もともとの預言者、そしてミカは告発しているのです。そして神がその「強い国々」を戒められる、と。

 さらにミカは、平和が実現した後の世界についても語っています。平和を脅かすものがすべてなくなった後(4節)、「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。」(5節)と言うのです。自分たちは主なる神ヤハウェを信じて平和に歩むし、他の民も、それぞれの信じるところに従って平和に歩む、それこそが、まことの、主が実現してくださる平和、主の平和であるとミカは言っているのだと思います。

 現代においては、宗教を信じない、という人々も多く存在します。そうした人々とも互いの信念を尊重し合い、共に生きて行く世界を、私たちは主イエスを信じて、実現して行く者でありたいと思います。

     2023年8月6日 平和聖日礼拝 笹井健匡牧師


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