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「だれに聞くか」 マタイによる福音書17章1~8節

 早いもので、レントも後半に入りました。信仰者として受難節を歩んでいますが、世の中もコロナ禍が続き、困難な日々が続いています。大変な社会状況が続き、なかなか出口が見いだせなくなると、人々は強いリーダーシップを求めます。民主政治が衆愚政治になり、独裁に陥るのは歴史の教訓です。個々の自立が大切だと思います。
 イエスさまの時代もまさにそのような時代でした。ローマの支配が続く中で、イスラエルの人々は、強いリーダーを求めて行きます。多くの反乱が企てられましたが、すべて失敗に終わりました。そんな中、強く、頼ることのできる、王なるメシアは最後の望みだったのかも知れません。
 今日の聖書は「山上の変容」のところです。モーセとエリヤとイエスさまは何を話し合っていたのでしょうか。今日までの歴史、神のみ業、将来の希望等々いろいろなことが語られたかも知れません。しかし中心は、おそらくイエスさまがこの後歩まれる、受難の道だったのではないかと思います。
 あろうことか、口をはさんで、しかもとんちんかんなことをペトロは言いました。すると光り輝く雲に覆われ、「これに聞け」という神の声を聞いたのです。
せっかくの信仰告白も、その後メシアの受難について理解できなかったペトロはイエスさまから「サタン、引き下がれ」という強いお叱りを受けます。今日の聖書の山上の変容をされたイエスさまを目の当たりにしても、ペトロは王なるメシアをイエスさまに見ていたのです。
 人は自分の思い、望みを相手に投影してしまいます。イエスさまの受難予告の言葉を、自分の思い込みを捨てて、そのまま受け取ることがペトロたちにはできませんでした。だからこそ、神さまはこのような山上の変容の奇跡を通して、イエスさまにこそ聞くべきことを教えられたのだと思います。
 2千年後を生きる私たちはまことのメシア、キリストは、独裁者とは対極にある方であり、自らの命を投げうってでも、私たちを愛してくださる方であることを知っています。そしてそのイエスさまによって、神が愛であることをも知っています。
 十字架へと歩まれるイエスさま、受難のメシアこそ、まことの救い主であることを心に刻んで、後半のレントの時、克己の歩みを続けて行く者でありたいと思います。

               2021年3月14日 受難節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

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