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「自分の十字架」  マルコによる福音書8章31~9章1節

 十字架はキリスト教のシンボルになっていると思います。しかし、イエスさまが十字架にかかられる前までは、十字架は残酷な処刑台以外の何ものでもありませんでした。十字架刑を下された者は、自分の十字架の横木を刑場まで持って行くということがなされていました。十字架というものはあくまでも刑を受けた者を苦しめ、死に至らせる道具であったのです。
 今日の聖書のところでイエスさまは、第一回目の受難予告をされます。イエスさまは、御自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて殺され、三日目に復活することになっていると言われました(31節)。ペトロは今日の聖書の前の個所で、イエスさまへの信仰告白をなしています。ペトロはイエスさまがこの世で栄光を受けられる方だとも思っていました。イエスさまは、ユダヤ社会の宗教的指導者を屈服させ、ユダヤ社会の支配者になる、王になる方であると思っていたかもしれません。それなのに、イエスさまは、ペトロの思いとは全く反対のことを、受難予告で言われたのです。それを聞いたペトロはおもしろいわけはありません。イエスさまをわきへお連れし、いさめるということをなしたのです。そうするとイエスさまはペトロに対し、「サタン、引き下がれ。」という大変強い言葉でペトロを叱り、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている(33節)と言われたのです。神の思いと人間のこの世的な思いというのは異なるものなのだと思います。人間的な、この世的な栄光というものは、神の意志に反するものであるのかもしれません。イエスさまは弟子たちに「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(34節)と言われました。イエスさまが言われる十字架とは人を死に追いやるほどの苦しみの象徴として言われたのではないかと思います。
 「自分の十字架」を負うことによって、生活環境が変わったり、自分の持っていた価値観の転倒が起きることがあるかもしれません。それは、貧しい方へ、貧しい方へと向かう在り方であるかもしれません。また、自分の苦しみを受け容れて生きるのみならず、他者の、隣人の苦しみをも負う歩みをすることになるかもしれません。しかし、そのような歩みをしんどくても続けていくならばイエスさまからほめられるようになるのではないかと思います。私たち一人一人、それぞれの置かれた場にあって、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従っていく、そのような歩みを、祈りつつなしていく者でありたいと思います。

2018年10月21日 聖霊降臨節第23主日 平島禎子牧師

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