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「上に進もう」 コリントの信徒への手紙二4章7~9節

 今日の聖書は、有名な「土の器」のところです。神と人との対比がとてもうまく表現されている言葉だなあと思います。創世記の、人間を創造された物語が背景にあるのかも知れません。しかしより直接的には、当時の人々の生活があったようです。人々はセキュリティーがあまりない時代の中で、「宝」を「土の器」すなわち素焼きの貧しい、そしておそらくはひび割れや、欠けのあった器に隠していたのです。それは人々の生活の知恵、生きる、生き抜いて行く力だったのだと思います。

 「宝」とは先行する1~7節に記されている「イエス・キリストの光」です。そうするとここでは、パウロの、自分自身の実体験が反映されているようにも思えます。パウロはダマスコ途上、強烈な天からの光を受け、「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9章)という声を聞きました。迫害に燃えていた一人の青年を、キリストの光が照らし、悔い改めさせ、それまでとは真逆の、大伝道者へと変身させたのです。

 パウロは数々の素晴らしい伝道をなしましたが、その力の源泉をだれよりもよく知っていました。迫害者であったこの自分をも転身させ、伝道者として用いておられる、それはすべて神の力であるということを。

 8~9節は、パウロが伝道の実体験から得た究極の結論だと思います。どんな絶望的な危機にあっても、彼は救われ続けて来たのです。どうしてでしょうか。それは最初の「四方から」の言葉にヒントがあります。前後左右、あらゆる苦難に取り囲まれたとしても「上」だけは空いているのです。苦しみの中で、悲しみのどん底で、なお顔を上げると、そこには天の光が輝いていたのです。あのダマスコ途上で自らを照らした‥。

 私たちは、生きて行くとき、さまざまな苦難、悲しみに出会います。この世の状況がどうしようもなく思える時こそ、私たちはパウロのように天を見上げる者でありたいと思います。苦しくて、苦しくて、あまりにもきつくて、どうしようもないとき、もう一歩も前に進むことができないとき、私たちは上に進みましょう。神さまの光に包まれる時、この世の憂いは去り、ただイエス・キリストのみが共にいて、私たち、自分自身を新たにしてくださいます。そうして、新しい生きる力を与えられ、また新たに生きなおしてく歩みを続けて行く者でありたいと思います。

 

      2022年6月26日 聖霊降臨節第4主日礼拝 笹井健匡牧師


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