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「新たに生まれる」 ヨハネによる福音書3章1~15節

 今年もイエスさまが昇天され、ペンテコステを待つ10日間を迎えています。そんな中、緊急事態宣言が発出されました。例年にも増して、いろんな意味で、祈りをさらに熱くしてこの時を過ごして行きたいと思います。

 今日の聖書は、イエスとニコデモの会話の場面です。ニコデモはファリサイ派に属する議員でした。おそらく宗教的政治的指導者として、人々から一目置かれている存在だったと思われます。ニコデモはイエスが行われたしるしを根拠に、イエスが神のもとから来られた教師であることを知っていると言っています。ニコデモは、人間社会の指導者らしく、自分の知識や思考によって判断できる根拠を挙げて、イエスが神のもとから来られた教師であると言ったのです。しかしイエスはニコデモに対して「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。

 ニコデモは、イエスの言われたことが理解できませんでした。イエスは、さらに言葉を続けられます(10節以下)。ニコデモは、それでも理解できなかったと思われます。しかし分からないながらも、イエスには何かがあるということにこだわり続けました。7章51節では、ユダヤ人指導者たちがイエスのことを批判している時、ニコデモはイエスを弁護する発言をしています。19章39節以下では、アリマタヤのヨセフとともにイエスの埋葬をしています。おそらくニコデモは、イエスのことを最初は理解できないながらも、イエスから離れることができず、最後はイエスのことを信じるようになったのではないかと思います。

 黒澤明監督の『生きる』という映画があります。…中略…。

主人公は、「死」が迫って来ることによって、それまでとは違う、新しい自分に飛躍することが出来ました。人間の思いを越えた「何か」が働いた時、人は新たに生まれることが出来るのかも知れません。

 「風は思いのままに吹く。…」と言われたイエスの言葉を思い、神のもとから吹いて来る風に、自分の身を委ねてみてはどうでしょうか。そして人間は新たに生まれることができるという希望のもとに、不確実かも知れないけれど、計り知ることのできない“何か”のある明日を信じて、それぞれの人生を歩んで行く、また教会の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

 

2021年5月16日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師


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