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「新たに生まれる」ヨハネによる福音書3章1~15節

 CSで子どもたちに話をするとき、どういうことを話すか、なかなか苦労しますが、聖書の登場人物が個性的なときは、たいへんやりやすかった訳です。旧約ではノア、ヨナとか、新約ではペトロ、ザアカイなどがいますが、今日の聖書のニコデモもわりと話しやすいところです。イエスさまの「新たに生まれなければ」(3節)という言葉に、ニコデモは「年をとった者が‥‥もう一度母親の胎内に入って」(4節)という、とんちんかんな応答をしています。

イエスさまとニコデモとの嚙み合わない会話を子どもたちに分かりやすく、おもしろく語れば良かった訳ですが、大人になって、ニコデモは、本当にそれだけなのかと、自分が年をとって、あらためて思います。

ニコデモはファリサイ派の律法学者で(1,10節)、最高法院の議員(1節)でした。そしておそらくかなりの高齢でした。社会的地位もあり、人々からの信頼も厚かったであろうそれなりの人物が、夜こっそりと、何の肩書もない、田舎出身のイエスさまのところにやってきたのです。しかも2節の挨拶からは、謙遜な、心からイエスさまを尊敬している気持ちが伝わってきます。

しかしイエスさまは人の心をお見通しです(2:25)。3節の答えは「神の国を見たい」というニコデモの本心、渇望をついたものでした。いきなり核心をつかれたニコデモは動揺し、もしかしたら少し意地悪に、4節のとんちんかんな応答をしたのかも知れません。

彼は、おそらく幼いころから熱心に律法を学び、まじめに実践し、「正しき」人として生きて来ていました。ローマの支配、つまり人間の支配が終わり、神の国、つまり神の支配が実現するのを心待ちにして、熱心に祈っていたのではないかと思います。彼が期待したのは、律法を熱心に守る、その上に何をすれば神の国をみることができるのか、という問いへの答えでした。しかしイエスさまが言われたのは、水と霊、つまり悔い改めて、聖霊によって新しい人になることが、神の国に「入る」ことだというものです。

律法順守、厳格な実践の延長上に、神の国が実現するのではなく、神を信じ、神からの風、聖霊を受けて新しい人として誕生する、そのことによって神の支配のなかに生きていくことができる、そしてそれは地上のあらゆるもの、絶対と思えるあのローマをもはるかに凌駕したものなのだから、と言われたのです。

 神のもとから吹いて来る風を受けて、また新しく誕生し、この一年を主と共に神の支配の中、生きていく者でありたいと思います。

  2024年1月21日 降誕節第4主日礼拝 笹井健匡牧師


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