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「洗礼」 マルコによる福音書1章9~11節

 年末に、帰省(4日~6日)を取りやめたので、毎年定番の「お雑煮とがめ煮」のないお正月でした。(もちろん、おせちとお餅は食べましたが。)おかげで例年よりは太らずに済んだようです。また1日の新年礼拝の後は、少しゆっくり過ごすことができました。

 5日(木)の朝、猫の敷物を干しに行くと、近所にプロパンガスの配達の車が止まっていました。朝の静けさを破って「ありがとうございました。」という声が聞こえました。車にあった社名「三愛○○○○」の「三愛」が飛び込んできました。ああ、三愛!

 ちょうど、イエスさまが洗礼を受けられた今日の説教のところを考えていた私は、おお!と、ビビっときました。

 イエスさまの洗礼は、なかなか理解がしにくい出来事です。いろいろな解釈がなされますが、今回私に示されたのは、「三つの愛の象徴」でした。

 第1は、イエスさまが、自らすすんで洗礼をうけられたことです。マタイではその理由が「正しいことをすべて行う」と述べられています。人間がもっと強い存在だったら、洗礼は必要なかったのかも知れません。しかしイエスさまは人間の弱さをよくよくご存知でした。だからあえて受けられたのかなあと思います。私も受けたのだから、あなたも受ければいい。そして救われなさい、と。イエスさまの、人々への愛が第1です。

 第2は、ヨハネが洗礼を授けたことです。天の力による洗礼でもよかったはずです。山室軍平の映画には、彼が天からの大雨による洗礼を受けたシーンがとても印象的に演出されていました。しかしイエスさまは、ヨハネから洗礼を受けられました。ヨハネは人々の代表ということができると思います。するとイエスさまの洗礼は、人々からのイエスさまへの愛の象徴と捉えることもできます。

 第3は、神が顕現したことです。言うまでもなく、神の愛が、「愛する子」「心に適う者」という言葉で直接表現されています。

 イエスさまの洗礼は、神の愛とイエスさまの愛と人間の愛、この三つの愛が交わり、呼応している、言わば愛の三重奏の出来事なのです。

 そして、洗礼は、新しい時代の幕開け、スタートを告げるものでもありました。私たち一人ひとりも、この年も、イエスさまの愛と共に、歩みをはじめて行きたいと思います。

 

        2023年1月8日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


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