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「火種」 ルカによる福音書12章49~53節

 今日の聖書の個所には、イエスさまの激しい言葉が記されています。「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と記されています。イエスさまが言われている「火」とは、この世が真の平和となるための火であるものではないでしょうか。燃えるような思いを持ち、この世を神の国とするための燃えるような思いの「火」が地上にはない、だからイエスさまはそのような火を投ずるためにこの地上に来られたのです。
 イエスさまが来られる前のユダヤ社会の在り方、家族、親族の在り方は何も問題がないように思われ、律法を守ることが第一であり、隣人を助けようとするようなことはほとんどなされていたかったことではないかと思います。家族の在り方もそのようなユダヤ教の影響を受け、どんな人でも自分の置かれた境遇に甘んじるのが当たり前だったのではないでしょうか。イエスさまは、家族の分裂についても述べられています。これはちょっとひどいのではないかとも思わされますが、何かが起きた時、親子の間に分裂が起きるということがあります。子が正しい場合、子は親に逆らっても自分が正しいと思う道を歩いていくということが、分裂をもたらすということではないかと思います。その時は大変つらい思いをするでしょうが、正しいことをなしていると確信するならば、たとえ誰から何を言われようとも、自分は正しいことをしているのだと、
胸を張って、心にエネルギーとしての火が焚かれていくのではないかと思います。そして、時が経てば親と子の和解もなされるようになるかもしれません。
 山崎朋子さんの「火種はみずからの胸底に」というタイトルの本があります。その中で「底辺女性」、「アジアの民衆」の解放がなされていないということを述べ、山崎さんは自らの胸底に火種がありというとき、その根底には「この世で差別され、抑圧されている人たちとアイデンティファイされなければいけないのではないかと言われています。人の在り方は多様です。人はそれぞれいろいろな考え、生き方をもっています。私は双極性障害(躁うつ病)になって燃え尽き症候群のようになりましたが、自分の火種が燃え上がらずとも決して消えることがない神さまの愛の火、イエスさまの救いの火が投じられているからだと思います。
 イエスさまが投じられる火が私たちの胸底にある火種を燃やしてくださるように、そして教会もイエスさまの火を受けて、炎を燃え上がらせて成長していくことができるようにと祈る者でありたいと思います。
 
               2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日 平島禎子牧師

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