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 11節には、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる…。」と記されています。「神はすべてを時宜にかなうように造り」と訳されている箇所は、口語訳聖書では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」と訳されています。たとえ苦しみの時であったとしても、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」のです。

 パウル・ティリッヒは、「時間的なものが永遠的なものへ移り行く時に、人間の時間の中に、神が介入される出来事が起きる。」と言っています。神が人間の世界に介入される「時」のことを「カイロス」というギリシア語で表現します。人間がこの地上での時間にのみ没入するのではなく、人間が知ることができないものであるが、人間の時間とは違う神の時間、「永遠」がある、その「永遠」に心を向ける時、私たちの過ごしている「時間」が「カイロス」、「神が地上に介入される時」となるのだろうと思います。

 教会は、また、キリスト者は、この地上にあって、地上の時間を過ごしていますが、しかし、地上の時間とは異なる「永遠」があるということを知っている者であります。私たちの「時間」が「永遠」へと移り行く時、それは、瞬間的、刹那的「時間」であるかもしれませんが、その時に、この地上に「神の国」の一端が現れるのだと思います。

児島教会のこれまでの歩みの中にもそのような「カイロス」と呼べる時間を幾度となく経験してきたのではないかと思います。また、これからの教会の歩みの中でも、神が地上に介入される時、「カイロス」が起きることであろうと思います。

 私たちは、「永遠を思う心」を持って地上の「時間」を歩みゆくことが大切であろうと思います。私たちは、神さまが地上に介入される数々の小さな「カイロス」を経験して、その後、大きな「カイロス」を経験することができるのだと思います。

 しかし、相反する時をもって、2節から8節が記されているように、「聖なる時」と相反する時として、「悪魔の時」があることを覚えておかなければならないと思います。神さまに近づけば近づくほど、悪魔の誘惑は強くなっていきます。そのことに気を付けながら、私たちの教会に与えられている時間、また、私たち一人一人に与えられている時間を「永遠」を思う心を持って、歩む者でありたいと思います。

 

2024年12月29日 降誕節第1主日 平島禎子牧師


説教題「最初の知らせ」 ルカによる福音書2章8~20節

 

 クリスマスおめでとうございます!今年は季節も暦通りに進み、アドベントの歩みを終えて、寒いクリスマス礼拝の朝を迎えました。

 今日の聖書に登場する羊飼いたちも、大変寒い思いをしながら、羊の番をしていたことだと思います。どんな話をしていたのでしょうか。それとも、・・・。

 するとそこに突然天使が現れます。しかもあろうことか、救い主の誕生を告げたのです。羊飼いたちの驚きは、ものすごいものだったと思います。どうして、救い主誕生の最初の知らせは、羊飼いたちに届けられたのでしょうか。

 私たち人間社会でも、親の、子に対する愛は同じようなものではないかと思います。愛情深い親ほど、出来のいい、優秀で何の心配もない子どもよりも、病気や障がいがあったり、また生きるのがへただったり、厳しい状態にある子どもにより大きな愛情を注ぐのではないでしょうか。

 当時の社会の中で、その底辺で、厳しい生活を強いられていた羊飼いにこそ、神さまは、真っ先に、救い主誕生の良き知らせを届けられたかったのではないでしょうか。羊飼いたちは、人間を代表して、この知らせを受け取ったのです。

 しかも、そこで与えられたしるしが、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている」というものでした。一説によりますと、当時、羊飼いたちの社会でも、出産があった時、同じように布にくるんで飼い葉桶に赤ちゃんを寝かせていたようです。そうすると、つまり羊飼いたちは、まるで自分たちの赤ちゃんと同じように誕生した、救い主を告げられた、ということになります。さらに驚くべきことだったのではないでしょうか。

 クリスマスの最初の知らせは、王でも、議員でも、大祭司でもなく、冬空の下野宿していた名もない羊飼いたちに与えられました。最も高き存在である神のもとからの、最高の良き知らせが、最も低きところを生きていた羊飼いたちに、最初に与えられたのです。ここから、人類の救いの業が始まったのです。

 今も、様々な闇が世界を覆っていますが、このクリスマスの良き知らせが、その希望の光が、世界の闇を打ち破り、人々が笑顔で暮らせる、真に平和な世界をもたらすことを信じて、また新たな歩みを始めて行きたいと思います。

 

2024年12月22日 クリスマス(降誕前第1主日)礼拝 笹井健匡牧師


 早いもので、アドベント第3主日を迎えました。日本では、第4アドベントにクリスマス礼拝をすることが多いので、最後のアドベントの礼拝となります。

 美しく感動的なクリスマス物語を記したルカは、先週の礼拝で平島禎子牧師が言われたように、マリアを「マリアム」と表記しました。モーセの姉ミリアムを想起します。またマリアの賛歌は、ハンナの祈りを想起させます。実は、旧約聖書には、当時の社会の裏方となっていた女性たちが多く登場します。

 今日の聖書は、士師サムソンを産むことになる、一人の名もない女性が御告げを受ける場面です。ハンナを顧みられた神さまは、その少し前、この一人の女性を顧みられたのです。連れ合いのマノアがどういう人物か詳細は分かりませんが、ごく普通の人であったように思われます。

 主の御使いは、この女性に現れられました。そして出産の予言をするのです。その子は、救いの先駆者であり、生まれながらのナジル人だと告げられます。どこかマリアの受胎告知を彷彿とさせます。

 この女性も、連れ合いのマノアも、当初この人を神からの使いの人、神からの何らかの知らせを持ってきた人、あくまで人間だと思いました。しかし、後から (19節以降)その人が、主の御使いだったと知ることになるのです。

 女性が男性の財産と考えられていた時代、わき役に回ることが多かった時代、そんな時代の中で、士師サムソンの誕生の時、おそらく厳しい状況を生きていた一人の名もなき女性に主の御使いが現れ、神の御業が告知されました。この女性は、ミリアム、ハンナと共に、脈々と流れる、表面には見えにくいが確かにつながれてきた女性たちの歴史を示す、マリアへと通じる、マリアの源流となったのだと思います。

 マリアの信仰がイエスさまの誕生の礎となったように、ミリアムの機転がモーセの誕生時に命を救ったように、この女性の神への信頼と誠実さがサムソンの誕生を実現したのです。

 私たちの信じる神さまが、旧約の時代から、男性だけではなく、女性をも愛し、またその神さまに応答して生きた女性たちがいたことを覚える者でありたいと思います。

 クリスマス、それはすべての人、文字通りあらゆる人の救いの出来事です。そのことを覚えて、特に今厳しい状況下にある人々のことを熱く祈りつつ最後のアドベントの歩みを進めて行きたいと思います。

2024年12月15日アドベントⅢ(降誕前第2主日)礼拝 笹井健匡牧師


 イエスの母となるマリアは、ガリラヤ地方のナザレという町に住んでいました。ガリラヤのナザレからよいものは出ない、救い主は出ない(ヨハネ1・46、7・41)というのがユダヤ社会の常識でした。しかし、神さまは、ガリラヤのナザレの町を選ばれたのです。 

 マリアは結婚を控えた娘として、平凡な日々を送っていたことだと思います。マリアの夫となるヨセフはダビデ王の家系の人でしたが、大工を生業とした一般庶民として生きていました。しかし、そのような日常を破る出来事が起きようとしているのです。

 天使ガブリエルがマリアのところに現われました。マリアは、天使の言葉を聞いて、胸騒ぎがして、…思いめぐらしていた」(29節口語訳)のです。天使は「恐れるな。」とまず言い、マリアが選ばれた女性であること、神から恵みをいただくにふさわしい女性であることを宣言するのです。そして、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。…。」(31節)と言ったのです。マリアは「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34節)と答えました。処女が子どもを産むなどあり得ないことです。マリアはその言葉を聞いて思いめぐらしていたかもしれません。どうしてそんなことがあり得るだろうか、あり得たとしても、結婚もせずに子どもを宿すことが公になったら、姦通の罪で石打ちの刑に処せられ、殺される、天使が現れて子を宿すと告げられたと言っても誰も信じないだろう…などと考えていたかもしれません。しかし、天使は、マリアの親類のエリサベトが高齢なのに身ごもり、もう6か月になっていることをしるしとして語り、「神にできないことは何一つない。」と語りました(35‐37節)。神さまの業は人間がはかり知ることができないものであるのです。「神にできないことは何一つない。」という言葉を聞いて、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と答えました。

 マリアは天使の言葉を聞き、平凡な娘から神への信仰を厚くする一人の女性へと変えられていったのではないかと思います。世間一般の人から、また婚約者のヨセフから姦通の罪を犯したと思われるかもしれません。しかし、そのことをもマリアは神に委ねて、神の子の母となる覚悟を命がけの信仰をもってなしたのだと思います。

 私たちにとって、主イエスの誕生は喜びであります。しかし、そのイエスが誕生されるために、一人の女性マリアの神への信仰が強くあったということを改めて心に刻まなければなりません。そして、マリアのように「神にできないこことは何一つない」という言葉を信じて、どんな困難な目にあっても、神さまは救い出してくださる力があるのだ、神さまにできないことは何一つないのだ、ということを信じていきたいと思います。

 アドベントのこの時、イエスの母となるマリアの信仰を思い、心を強くされ歩んで行く者でありたいと思います。

2024年12月8日 アドベントⅡ 待降節第2、降誕前第3主日 平島禎子牧師


 今年もアドベントを迎えました。クリスマス、主のご降誕の日まで、心の備えをなして行きたいと思います。

 教団の教会暦で、アドベントⅠの主日は、今日のイザヤ2:1~5になっていました。有名な個所です。特に、平和について、現代でも大きな示唆と指針を与えられ続けている個所です。現在の世界の状況を思います。

今回あらためて読み直してみて、心に引っかかったのは、4節の「戒め」という言葉でした。「預言」というと、神から預かった言葉ですが、その内容が未来に関することが多いので、いわゆる「予言」としても受け取るわけです。しかし少し違う角度から見てみると、それは私たち人間に対する「戒め」でもあると思わせられました。

 神とイスラエルの民の間柄の根底にある重要なものの一つに「十戒」があります。名前の通り、十の「戒め」です。神は、イスラエルの民の再出発にあたって、最も大切な約束、契約として、「十戒」を定められました。

その後のイスラエルの歴史の中で、民が神に背き、神を忘れて危ない方向に歩んで行く時、神は預言者を送られました。そしてその時々に応じた「預言」を与えられました。その「預言」は「戒め」でもあったのです。

以前、礼拝でお話しましたように、ミカ書にも同じ預言が記されています。ほとんどが同じ内容なのですが、少しだけニュアンスが違うところがあります。それがこの4節の「戒め」にかかわるところです。ミカでは「戒め」の対象が明らかに、イスラエル周辺世界の列強国です。それはそれでミカらしい、意味深いものですが、イザヤは「多くの民」と、より一般化して記します。政治的な配慮の匂いもしないではないですが、肯定的に捉えるならば、より普遍化することによって、すべての民、すべての人間に対する「戒め」と読むこともできるのではないでしょうか。

 ミカ書とイザヤ書に記された、この平和の預言は、未来の予言であると同時に、今を生きる人間に対する「戒め」でもあります。神の大いなる愛から出た「戒め」を真摯に受け取り、平和を祈りたいと思います。

 イエスさまはたったひとつの戒め「互いに愛し合いなさい。」を与えて下さいました。究極の「戒めの預言」だったと思います。その救い主イエス・キリストを迎えるべく、アドベントの歩みを一歩一歩進めて行きましょう。

 

2024年12月1日 アドベントⅠ(降誕前第4主日)礼拝 笹井健匡牧師


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