実家の私の部屋には、「道もない。峠を越えて、里がある。」「この道より、我を生かす道なし。この道を歩む。」という、小さな安い額が掛けてありました。後者は、最近になって、武者小路実篤の作品だと判明しました。まだ若き日に、彼の「新しい村」について知っていたので、その影響かも知れません。実際のところは分かる由もなく、海馬の奥深くに眠っているようです。
1月に亡くなった平島禎子牧師の父の葬儀で、個人の愛唱歌として、「マイウェイ」の演奏があり、久しぶりに記憶が少し蘇りました。
今日の聖書は、パウロが皇帝に上訴する場面です。フェリクスに代わって総督になったフェストゥスの前で、ユダヤに対しても、ローマに対しても無罪であることを弁明したパウロは、エルサレム行きを拒否して、最後にローマ皇帝に上訴します。(8節、11節)
3回にわたる宣教旅行を終え、エルサレムに行ったパウロは、21章で逮捕されてから、事あるごとに長い弁明をしています。特に逮捕直後の22章とローマ出発前、26章のアグリッパ王の前では、回心について、つまり無実の弁明だけではなく、イエス・キリストの証まで、朗々と訴えています。しかし今日のところでは、その「おしゃべり」なパウロが、口数少ないのです。
直前の24章27節によると、パウロは2年もの間、カイサリアに監禁されていたことが分かります。この2年が、彼の覚悟を決めたのかも知れません。つまりローマに行く決意を固くした彼は、上訴以外のことは語らなかったのです。
非常にユニークな推測が、ひとつあります。それはこの2年間、著者のルカがパウロと共にいて、そこでルカによる福音書の基となる書物を書いた、というものです。イエスさまの生涯を二人で振り返ったパウロは、ローマ行きを決然と決行する決心がついたのではないかというのです。
人の一生は、本当にそれぞれ多様性に満ちています。パウロにとって宣教者としての生涯を全うする道が、ローマへの道だったのかも知れません。
ここにいます私たちも、それぞれに現在まで、主に導かれ、守られて歩んで来ました。これからも、それぞれの道を歩んで、生涯を完成させたいと思います。わたしは、この道を歩む。どんなことが起ころうとも、神さまからいただいた、そしてそれを受け入れて自らの道として歩む決意をしたこの道を、最後まで主に導かれ、守られて歩みぬいて行きたいと思います。
2024年9月29日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師
秋分の日を迎えました。
ローマの信徒への手紙において、パウロはキリスト教信仰について律法と福音を軸として11章まで、壮大に語ります。そして9~11章は、イスラエルの民の救いについて熱く語ります。今日の聖書は、その二つの言わばパウロの神学の最後の部分です。(12章からは信仰生活について語ります。)
イスラエルの民の救いについて、神の計画の深さについて感嘆の言葉を語ります。ごく簡単に言うと、もともと神が愛された民であったイスラエルですが、イエス・キリストを拒んでしまいます。それによって福音が異邦人世界にもたらされ、多くの他の民族が救いに預かることになりました。しかし、異邦人の救いが完成したならば、最後に再び、もともとの神の民であったイスラエルの民も、救いへと入れられて行く、とパウロは信じ、表明しているのです。
そしてパウロは、ヨブを思い起こします。神の思いは、人の知り得るところではないこと(ヨブ15:8)、また人が神に何かをプレゼントしたり、助言をしたりできるものではないことを(ヨブ35:7)、語ります。
そして最後に、すべてのものは、神から発し、神に帰ることを宣言するのです。この言葉はパウロの、おそらく霊的な体験を背景として出て来ているようにも思えます。普段あまり自身のそうした面を語らないパウロですが、コリントの
信徒への手紙二12章には、彼が第3の天にまで引き上げられた体験をしたことが記されています。日々、地上で現実的な厳しい宣教に勤しんだパウロですが、彼の心はある意味宇宙的広がりを持って、神を思い、イエスさまと交わっていたのかも知れません。
そしてこの「すべてのもの」の中には、もちろんイスラエルの民が入っているのです。もともとの同胞でもあり、かつてはファリサイ派に属し、熱心なユダヤ教徒であったパウロですから、家族・親族や、信仰の友、恩師ガブリエル(使徒22:3)等多くの愛する存在がありました。
春分や秋分という大きな節目に、大自然の営み、神の、そのスケールの大きさをあらためて肌感覚で感じながら、その恵み深さを思います。終わらない夏は、ないのです。
すべての源である神を思い、その神を信頼して共に歩み、天の神のもとへ向かって、1日1日を誠実に、大胆に生きて行く者でありたいと思います。
2024年9月22日 聖霊降臨節第19主日礼拝 笹井健匡牧師
人類は、古来より、それぞれの地域で、神なる存在への思いを育んで来ました。イスラエルの歴史は主なる神ヤハウェと共にありました。アブラハムは、その人生を神と共に歩み、時に愚痴を言ったり、神を笑ったりしました。孫のヤコブ(後のイスラエル)にいたっては、神と取っ組み合いをしました(創世記32:23~)。もともと非常に近い存在だったヤハウェの神ですが、その後長いエジプトでの寄留生活を経て、遠い存在になりました。やがてモーセに現れられ、出エジプトがなされますが、十戒付与の後は、律法を通して神とかかわる、神と人との間には契約のしるしである、律法が鎮座することになりました。
遠い存在となった神を人々と結び付けたのが、預言者たちでした。預言者たちは人々に対して、神に立ち帰るように繰り返し説きました。エレミヤにおいて、ついに人間の外にあった律法は、人間の心の中に入れられ、神と人との距離が縮められようとしました(31:33)。
しかし預言者が現れなくなって数百年が経ち、イエスさまの時代には、再び神は遠い存在になっていました。人々の信仰生活は、律法至上主義のようなファリサイ派の人たちによってなされていました。
そんな時代の中、イエスさまは登場され、神との距離を縮められました。そしてユダヤ教からキリスト教が分離して誕生した時の、最大の違いは、神である主イエスが信仰者の心の中に、内在するという点でした。もはや律法ではなく、神そのものが、人の心の中に内在するのです。これは大変大きな信仰の転換点でした。
今日の聖書の17節には、「信仰によって 心の内にキリストを住まわせ、」とあります。信仰の対象である主イエス・キリストそのものが、信仰者の内に住まう、存在すると言うのです。イエスさまを信じる者は、イエスさまの愛を実践する者となるのです。どこまでも広く、いつまでも長く、空よりも高く、海よりも深いイエスさまの愛を内にいただいた者として、信仰の歩みを進めて行くのがクリスチャンです。失敗しようが、曲がりくねっていようが、大丈夫です。最高の神の愛をいただいているのですから。
神が内在し、人間と共に歩まれる、このことを忘れないようにしましょう。自分の中におられる神は、信仰の友の中にもおられます。他者の中におられる、内在する神に目を留め、共に信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。
2024年9月15日 聖霊降臨節第18主日礼拝 笹井健匡牧師
今日の聖書の箇所には「ぶどう園の労働者」のたとえが記されています。夜明け頃に雇われた人たちから始まり、9時、12時、3時そして、最後に5時に雇われた人たちがいました。最初の人たちは一日一デナリオン(当時の社会で一日生活できる最低の賃金)での約束でした。後の人たちは、「ふさわしい賃金」と言われ、最後の人たちは何も言われませんでした。夕方になり、その日の労働する時間も終わりになりました。いよいよ労働者たちに賃金が支払われる時となったのです。その賃金は、最後に来た者から最初に支払われ、最初に来た人たちはその後に支払われたのです。最後に来た者は一デナリオンを受け取りました。それを知った最初の者は自分たちはもっとたくさんもらえると期待していましたが、同じ一デナリオンしかもらえませんでした。そこで、この人たちは、一日中暑い中、汗を流して働いていた自分たちが最後に来た人たちと同じ扱いを受けたことに対して、ぶどう園の主人に不平を言いました。しかし、主人は、「友よ、あなたに不当なことをしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と言いました。最後に来た者は、なかなか仕事にありつくことができず、絶望的な思いを持ち、生活の保障を得られない人たちでした。この人たちが仕事につくまでの時間というものは、最初に来た人たちが仕事をして働いていた時間と匹敵するほどの、もしかしたらそれ以上の苦しく、しんどい時間であったのではないかと思います。働く人は労働の苦しさはあっても、賃金をもらえるという希望を持つことができます。しかし、仕事にありつけなかった人たちは、その日の生活にも事欠くことへの苦しみ、絶望感といったものを抱いていたのではないでしょうか。最初に来た人たちは、最後にきた人たちの苦しみに気づかなかったのではないかと思います。イエスは、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(16節)と言われています。後から来た人たち、この世から疎外され、見捨てられたように思われている人たちこそが、神の国では先になるのである、と言われているのです。
ある牧師は、精神的な病を持った人から、「働くことができて遊ぶ暇がないのと、毎日が休日でお金がないのとどちらが苦しいか、わかるか。」という問を受けたそうです。働きたくても働けない、しかもそのことによって、世間からは冷たい目で見られる、当然のことながら、経済的に困難な生活をしなければならない、そのような人たちの苦しみを本当にわかっているだろうか、と思わされます。しかし、そのような人たちこそ、神の国では、先にされるのです。教会に先に来た私たちがぶどう園の主人にたとえられている神さまの思いを知り、その神さまが私たちに対して、「友よ、私はこの最後の者にも、あなたと同じようにしてあげたいのだ。」と言われていることを知る者でありたいと思います。「最後の者にも」開かれている教会として成長していくことができるよう祈る者でありたいと思います。
2024年9月8日 聖霊降臨節第17主日 平島禎子牧師(文責)
新起日を迎えました。教会学校が盛んだった頃は、長い夏休みが終わり、2学期が始まる9月第1主日を心機一転、新たな気持ちでスタートしました。それを新たに起きる、と表現しました。
今治教会に赴任した私の朝には、世光教会からの一つのプレゼントがありました。目覚まし時計でした。二人の姉妹からのモーニングコールが入っていました。なんとも不思議な目覚めの時でした。
今日の聖書は有名な「光の子」のところです。パウロはエフェソにおいて、第2回目の宣教旅行で心残りだった伝道を、第3回目の宣教旅行でなしました。しかしそれは、使徒言行録19章にあるように、大変厳しいものでした。地元からもユダヤ人共同体からも迫害される中で、決して妥協することなく、新しい生き方をするクリスチャンとして、光の子として生きるようにエールを送るのです。
多くの人々が歴史と伝統に守られた因習の中を生きている社会に、新しいものを持ち込むのは、それはそれは骨の折れることです。しかしそうした言わば闇と思えるような現実に負けてしまうのではなく、目を背けるのでもなく、イエスさまからいただいた光を輝かすことが大事なのだと思います。
私たちもいろいろな意味で、光のない道を歩んでいた過去があるかも知れません。しかしイエスさまに結ばれて、イエスさまから光を与えられて、光の子となっているのです。たとえそれがどんなに小さい、弱い光であったとしても、その中に、イエスさまの真実があるならば、きっと神さまが良き方に用いて下さると信じます。
この世のさまざまな常識や、固定観念や、思い込みによって、まるで眠っているかのように生きている者、またこの世の不条理や、理不尽なことや、現実の厳しさの中でまるで死んでいるように生きている者、そうした状況にある者でも、起き上がるならば、立ち上がるならば、必ずイエスさまの光が照らしだし、どんな人であっても、光の子として下さるのです。
闇が世を覆っているように思える時代ですが、私たちの心が、魂がちゃんと目を覚ましていさえすれば、イエスさまは必ず光を送って下さいます。そのイエスさまをしっかりと見上げて、また遠くにクリスマスを望んで、新しい歩みへと押し出されて行く者でありたいと思います。
2024年9月1日 聖霊降臨節第16主日礼拝 笹井健匡牧師