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 イースターおめでとうございます!今年は大変遅いイースターで、すっかり暑くなってしまいました。日本の暦では穀雨にあたります。受難節、レントの歩みはいかがだったでしょうか。

 マタイは、その福音書を、マルコに従って、マグダラのマリアたちへの復活の主の顕現を記し、そしてその後ちょっとしたエピソードをはさんで、今日の世界宣教命令で綴じます。その最後の場面の地はガリラヤです。(26:32)

 マタイは、その中で「山」(16節)を強調します。おそらく山上の説教(5~7章)をされた山だと思われます。復活の主は、弟子たちを、生前大勢の群衆とともに過ごし、たくさんの教えを語られたあの山に導かれたのです。

 弟子たちは、どんな思いで山を登って行ったのでしょうか。17節にはイエスに会ったときに疑う者もいたことが記されています。この「者」は複数形ですので、決してトマスを連想させるものではありません。そうではなく、「復活」という前代未聞の事柄に対する疑心暗鬼が記されているのだと思います。彼らに入って来ていた復活に関する情報は、マグダラのマリアたちの情報だけでした。マタイではルカやヨハネにある、弟子たちへの復活顕現はありません。

 イエスを見捨て、逃げ去ってしまった弟子たち、つまり師を裏切ってしまった弟子たち、そしてすべては終わってしまったと思っていた弟子たちにとって、主の復活は、夢幻よりも実現性のない、負け惜しみのような、おろかなたわごとだったのかも知れません。

 イエスが近寄り、おそらくは大きな、はっきりとした声で、宣教命令、そして最後に「世の終わりまで、いつも共にいる」ことを言われたとき、はじめて本当の意味で、主の復活を信じることができたのではないでしょうか。

 マタイは、イエスの誕生の時、インマヌエル「神は我々と共におられる」(1:23)と記しました。そして最後の締めに、復活の主がわたしたちと共におられることを記したのです。これからの新しい時代、新約の時代は、復活の主イエスが、わたしたちと、いつも一緒にいてくださるのです。

 イースターから始まる新しい歩みを、復活の主と共に、元気に歩み出して行く者でありたいと思います。

 

2025年4月20日(日) イースター礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書には、イエスが裏切られようとする場面が記されています。イエスを裏切ったユダは、イエスが選ばれた十二弟子の一人でした。ユダもまた、他の弟子たちと同様に、人生のある時期にイエスと出会い、イエスを信じ、全てを捨ててイエスに従いました。しかし、イエスが受難予告をされるようになった頃から、ユダを含む弟子たちには動揺が起きたのではないかと思います。そして、ユダはイエスを裏切る決意をなし、祭司長たちのところへ行き、イエスを引き渡すことを申し出たのです。(14~16節) 

 ユダは人間的な思いを持ってイエスを見つめ、イエスを信頼し、自分の幻想をイエスに重ねた結果、それが異なるものであると知ると、イエスに失望し、イエスを憎み、イエスを裏切りました。しかしその後、後悔し、挙句の果てには自分の命を絶つということになってしまいました。

 ユダが最も親しい間柄を示す行為である接吻をもってイエスを裏切ろうとして近寄った時、イエスは、「友よ、あなたのしようとしていることをするがよい。」(50節)と言われました。イエスは、「裏切者よ」ではなく、「友よ」と呼びかけられています。イエスは自分を裏切ったユダの滅びの道をご存じで、ユダを憐れまれたのではないかと思います。

 私たちは、ユダ一人がイエスを裏切った悪者であると決めつけるのではなく、私たちの中にもユダ的なものがあるのではないかと思わなければならないのではないかと思います。私は、昨年度は、病気で教会を休むことが多く、思い描いている信仰生活ができない、理想とする人生が開けないと思うことが多々あり、イエスを遠くに感じていました。しかし、そのような私にさえ、イエスは、「友よ」と呼びかけてくださいます。そして、「それ以上、自分を苦しめる道に行くな。人間の思いを捨てて神に心を向けよ。神はあなたに何が必要であるかをご存じなのであるから、与えられているものに感謝しなさい。人間的な尺度で物事を計り、自分の心を濁らせ、腐らせてはいけない。」と語りかけてくださるのではないかと思います。

 使徒信条の中で、「十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり」とありますが、イエスが黄泉に下られたのは、先に死んで絶望の中に横たわっていたユダを救うためだったのではないかと、勝手に思っています。それほどイエスの愛は深いのであると思うのです。イエスは決して誰をも見捨てられない、たとえ自分を裏切った者であろうとも、その人を憎まず、愛し、探し、救いへと導かれる方です。このイエスに信頼し、人間の思いを捨て、神に従う歩みを2025年度こそはなしていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

 

2025年4月13日 棕梠の主日 受難節第6、復活前第1主日 平島禎子牧師


 新しい年度、2025年度が始まりました。お一人おひとり、あらたな気持ちで今日を迎えておられることと思います。また教会としても、週報に記載されている通り、新しい信仰目標、年間聖句を掲げて、あらたな思いで、新しい歩みをスタートしたいと思います。

 今日の聖書は、イエスが三度目の受難予告をされた直後のところです。先週話しましたように、今年は11年前と同じ日めくりになっています。さらに11年前児島教会での最初の説教は、今日の聖書のマルコの平行個所でした。マルコでは「ヤコブとヨハネが進み出て」となっていますが、マタイは母が二人の息子を引き連れて来たというふうに記されています。ちなみにルカはこの部分をすべてカットしています。後に誕生した教会で大いなる存在だったヤコブとヨハネの名誉を守りたかったのだと思われます。

母の言葉では、イエスが王座に就くことになっています。(マルコでは「栄光」)右大臣、左大臣のようなことを夢見ていたのかも知れません。(母の欲目、妄想)

イエスが受難のことを「杯」と言われても、本当の意味は理解せず、「できる」と答えます。しかもこの願望はヤコブとヨハネに限らず、他の弟子たちもひそかに心に秘めていた願望だったことがあぶり出されます。

 そんな弟子たちに対してイエスが最終的な結論として教えられたのが、「仕えること」「僕になること」でした。教会の掲示板に「今井敬隆僕仕」と書いておられた今井先生のことを思い起します。

 イザヤ書によくあらわれる主の僕(最後は53章)、また神に仕える多くの信仰者たちの姿を旧約聖書は記して来ました。「仕える」「僕」というのは神と人間の関係で捉えられてきました。しかし、イエスはそれを人と人との関係に広げられたのです。イエスはその生き様をもって、神の子が人に仕えることによって、まことの愛を示されたのです。そしてこの教えの最終到着地点は、互いに仕え合う、僕になり合うことによって、本当の意味で、互いに愛し合うことが実現するという地点です。そしてそこから地上に神の国が到来するということを、イエスは教えられたのだと思います。

 受難予告が3度もなされても、弟子たちは驚くほど無理解です。しかしこの、イエスと真逆の姿は、この受難節、レントの時を歩んでいる私たちの姿と、実はそんなに違わないのかも知れません。何度も繰り返しイエスのこの「仕えなさい」「僕になりなさい」の言葉を聞いて、イエスの後に従って行きたいと思います。

2025年4月6日(日)受難節第5(復活前第2)主日礼拝 笹井健匡牧師


 暦というのは、なかなかおもしろいものです。特に、月日と曜日、さらにうるう年まであるので、なかなか同じめぐり合わせにあいません。今から11年前、3月25日(火)に引っ越しして来て、荷物をアパートに入れ、その後、教会で歓迎会を開いていただきました。そして11年前のちょうど今日30日(日)、児島教会では高橋博牧師をお招きしての創立66周年記念礼拝でしたので、お邪魔をしないようにとお隣の琴浦教会の礼拝に出席しました。なんとも不思議なスタートとなりました。この2014年も、なんとイースターは4月20日でした。すごい。

 今日の聖書には、「時」という言葉が30回も繰り返されています。人生で経験する様々な時が記されています。「私」の視点から記されていますが、人は一人で生きて行くのではありません。この30回の時を貫く重層低音のような「時」として、友と出会う時、友と別れる時を思います。さきほど歌った讃美歌にいろいろな信仰の友が登場します。今は、先日召天された故出石洋子姉のことが一番思い浮かびます。

 以前にもお話しましたが、前任の伊予小松教会に赴任した時、1年目の夏に、一人の教会員が天に召されました。書記役員をされていて、物腰おだやかな、知的で清楚な方でした。教員を退職されてから特に教会の奉仕を熱心にされていたようです。この方の愛称聖句が伝道の書3章11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」でした。新共同訳になって翻訳が大きく変わり、残念です。

 春が来て、たくさんの色とりどりの花々が咲き誇っています。それを見ていると、本当に神のなさることは美しいとあらためて思います。神の業はすべて美しいのです。

 児島教会は77年の歩みを重ねて来ました。人間的な思いに立てば、いろいろなマイナスのこともあったかも知れません。しかし、それらはすべて神の御手によって、美しい事柄へと昇華されて行くのです。時にかなってなされた御業が長い歴史とともに熟成され、華やかな香りを、キリストの香りを放って広がって行きます。

 これから80年、そして百年に向けて、この地にイエス・キリストの福音を、その香りをさらに広げていくことができるように、皆で心を合わせ、祈りを熱くして児島教会の歩みを進めて行きたいと思います。

2025年3月30日(日)教会創立77周年記念礼拝 笹井健匡牧師


 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」(24節)とイエスさまは言われます。「自分を捨てる」というのは、自分を失くしてしまう、自己消滅してしまうことではありません。人間的な思いを廃して神さまに従うということです。「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」というのは、自分の力ではどうしても変えられないような病気やコンプレックスを持ったままで、人間よりは神に従うのだ、という思いを持って生きること、人から笑われようが、憎まれようが、私は神に従う道を歩むと決意すること、それが自分の十字架を背負うということであろうと思います。イエスさまの後について行くのには、何の条件もいりません。もっと立派な人間にならなければ、もっと知識や知恵をもたなければ、もっと信仰をもたなければ、もっとこのようにしなければ、などという条件は一切いりません。そのままのあなたで、ぼろぼろのままで、私について来なさい、とイエスさまは言ってくださるのです。

 私たちは、うまくいっていると思える時でも漠然とした不安を持つことがあるかもしれません。たとえ、一生懸命に仕事をしても、また、一生懸命に趣味に打ち込んでも、また、一生懸命に家族や友人を愛しても、それでも一抹の不安を感じるならば、それは、本当の救いに与っていないということであろうと思います。この世の人たちの言うことを聞き、世間体を気にするよりも、まず、神さまの御心を尋ね求める、そして、神の御心に従う、イエスさまに従うということではないかと思います。

 イエスさまに従うとは、自分の十字架を背負って、イエスさまの後をついて行くことです。私たち一人一人には悩みや苦しみがありますが、神さまは、そのことを通して、私たちをどのように導こうとされるのかということに思い至ることが大事だと思います。時として、イエスさまの前を行こうとする私たちであるかもしれませんが、しかし、イエスさまは、その都度、その都度、「引き下がれ、私に従いなさい。」と言ってくださるのです。

 このレントの時、「自分の十字架を背負ってイエスに従う」という決意をなし、神さまの思いを尋ね求めていく信仰を持って歩む者でありたいと思います。


2025年3月23日受難節第3、復活前第4主日 平島禎子牧師


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