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「起きよ!」 エフェソの信徒への手紙5章6~14節

 新起日を迎えました。教会学校が盛んだった頃は、長い夏休みが終わり、2学期が始まる9月第1主日を心機一転、新たな気持ちでスタートしました。それを新たに起きる、と表現しました。

 今治教会に赴任した私の朝には、世光教会からの一つのプレゼントがありました。目覚まし時計でした。二人の姉妹からのモーニングコールが入っていました。なんとも不思議な目覚めの時でした。

 今日の聖書は有名な「光の子」のところです。パウロはエフェソにおいて、第2回目の宣教旅行で心残りだった伝道を、第3回目の宣教旅行でなしました。しかしそれは、使徒言行録19章にあるように、大変厳しいものでした。地元からもユダヤ人共同体からも迫害される中で、決して妥協することなく、新しい生き方をするクリスチャンとして、光の子として生きるようにエールを送るのです。

 多くの人々が歴史と伝統に守られた因習の中を生きている社会に、新しいものを持ち込むのは、それはそれは骨の折れることです。しかしそうした言わば闇と思えるような現実に負けてしまうのではなく、目を背けるのでもなく、イエスさまからいただいた光を輝かすことが大事なのだと思います。

 私たちもいろいろな意味で、光のない道を歩んでいた過去があるかも知れません。しかしイエスさまに結ばれて、イエスさまから光を与えられて、光の子となっているのです。たとえそれがどんなに小さい、弱い光であったとしても、その中に、イエスさまの真実があるならば、きっと神さまが良き方に用いて下さると信じます。

 この世のさまざまな常識や、固定観念や、思い込みによって、まるで眠っているかのように生きている者、またこの世の不条理や、理不尽なことや、現実の厳しさの中でまるで死んでいるように生きている者、そうした状況にある者でも、起き上がるならば、立ち上がるならば、必ずイエスさまの光が照らしだし、どんな人であっても、光の子として下さるのです。

 闇が世を覆っているように思える時代ですが、私たちの心が、魂がちゃんと目を覚ましていさえすれば、イエスさまは必ず光を送って下さいます。そのイエスさまをしっかりと見上げて、また遠くにクリスマスを望んで、新しい歩みへと押し出されて行く者でありたいと思います。

 

2024年9月1日 聖霊降臨節第16主日礼拝 笹井健匡牧師



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