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「共に生きる」 ガラテヤの信徒への手紙5章13~15節

 私が教会に通い始めたころ、さかんに耳にした言葉が「共に生きる」という言葉でした。その頃は、しょうがい者、高齢者等、少数者や社会的弱者と共に生きる、という意味でつかわれていたように思います。しかし、40年ほど経ってよくよく考えて見ると、本来、共に生きる、というのは当たり前、人間のあるべき姿、本来の在り方のように思います。
 今日の聖書でパウロは、イエス・キリストによって得られた自由を悪しき機会とせず、互いに愛し合い、仕え合うために用いるように勧めています。2千年前の教会にも、いろいろな内部対立がありました。しかしそこで互いに攻撃し合っているなら滅んでしまうとパウロは言うのです。そして「隣人愛」をこそ大切なものとして提示します。
 神さまは、私たち人間をどのような思いをもって創造されたのでしょうか。まさか互いに挑み合い、傷つけ合うために創造された訳ではないでしょう。その反対に、互いに相手を尊重し、それぞれが賜物を生かして、豊かに、みんなが幸せに生きるように創造されたはずです。
 私たちはどうして他者を認める、受け入れることがこれほど苦手なのでしょうか。イエスさまはどんな人も受け入れようとされました。まるで幼子のように、またすべての人を昔からの友のように思われていたのかも知れません。
 現代はさまざまな分断が横行しているように思います。私が子どもの頃はまだ地域の共同体が生きていて、子どももみんなで育てるし、ハンディをもった人たちもそれなりにみんなの中でつながって生きていたように思います。もちろん完全ではありませんが。
 コロナが今私たちに突き付けているのは、このような厳しい状況の中で、私たちが「共に生きる」努力をもう一度、工夫し、みんなでこの困難を乗り越えて行くことによって、一人ひとりが自立しながらも、つながり合って、助け合って生きて行く社会を取り戻すことができるのかどうか、つまり新しい、共に生きる社会を実現することができるかどうかということではないかと思います。
 イエスさまによって、そのことを知らされ、実際に誕生したころの教会は、真に共に生きる共同体だったと思います。少しでも、小さくても実現できるよう、私たちも信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

          2020年9月6日 聖霊降臨節第15主日礼拝 笹井健匡牧師

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