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「時が満ちる」 マルコによる福音書1章14~15節

 ヨルダン川、荒れ野を経て、ガリラヤへイエスは行かれました。バプテスマのヨハネが捕らえられたのを合図に、満を持して伝道を始められたのです。ここからイエスの公生涯の本番がいよいよスタートです。
 当時、多くの人々はメシアが現れるのを待っていました。律法学者たちは、その時には先駆けとしてエリヤが現れると言っていました。山上の変容(9章)からの帰り、イエスさまはヨハネこそエリヤだったのだと、弟子たちに言われました。そのヨハネが捕らえられて、イエスさまが活動を開始されたということは、イエスさまはメシアとしての自覚を持って活動を始められたということです。しかし人々が待望していたメシアとイエスさまが言われる「人の子」はかなり違った存在でした。
 もちろんイエスさまはこの時のために、誕生され、生きて来られたのですから、いよいよ、という気持ちもあったと思います。しかし人々の思いとは違い、言わば受難のメシアの道を歩みだされた訳ですから、心中は複雑だったのではないかと思います。
 時が満ちた、という言葉にはそのようなイエスさまの複雑な思いが込められているように思います。人々にとっては、救いの時が近づいたのですから、それは喜び以外の何物でもありません。しかしその救いをもたらすために、この後苦難の道を歩まれるイエスさまご自身にとっては、ことは複雑であり、いろんな感情が渦巻いていたのではないかと思います。それはゲッセマネの祈りに集約されて行くと私は思います。
 私たちは自分自身の人生の中で、「時が満ちる」という経験をすることはあまりないかも知れません。しかし、神さまの時は、私たちが知らなくても、理解できなくても、静かに満ちて行くものなのかも知れません。もしかしたら人生の最後に、時が満ちた感じを覚えるかも知れません。
 イエスさまが言われてから2千年の年月が経ちました。もしかしたら今も私たちが知らないところで時は満ちようとしているのかも知れません。イエスさまのこの言葉を改めて新鮮な思いをもって聴き、そしてそれぞれの人生を神さまの時を旅する旅人として、すすめて行く者でありたいと思います。


              2021年1月10日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

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