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「永遠に存続するもの」 コリントの信徒への手紙4章16~18節

 今日は「聖徒の日」、「召天者記念礼拝」です。天にあげられた児島教会の先輩たち、ゆかりのある人たちを覚え、記念するための礼拝です。「汝、死すべき者であることを覚えよ」という西洋の格言にもありますが、自分が「死すべき者」であると自覚すると不安や恐怖を持つ人がいるかもしれません。また一方では、死ぬまでの人生を精一杯生きようと思う人もいるかもしれません。今年はSさんが10月26日に天へと旅立っていかれました。寂しく、悲しい思いがしますが、思い浮かぶのは笑顔の背板さんです。背板さんは神さまの御許で、笑顔の時を過ごしておられるのだろうと思います。
 今日の聖書の4章18節には、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と記されています。人間は生きている間は「見える存在、触れることのできる存在」です。しかし「死」に移されると「見えない存在」となり、見ることも、触ることもできなくなります。しかし、それぞれの心の中で、その姿をしのぶことはできるのです。
 今日の聖書の次のところになりますが、5章1節には「人の手で造られたのではない永遠のすみか」があると記されています。地上の人間では思いもよらない「天のすみか」があるというのです。天に召された人々は、その「天のすみか」で安らかに、永遠の時を生きているのであろうと思います。
しかし、このことはクリスチャンであるから、洗礼を受けているから、ということで縛ってはいけないと、私は思っています。個人の遺志や遺族の意志より、クリスチャンではない人の葬儀を教会員同様に行ったことが数回あります。一人ひとりの状況を鑑みて、柔軟な対応をしていくことが大事ではないかと思わされます。
 コヘレトの言葉3章11節には、「神はすべてを時宜に適うように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。」と記されています。見えないものは永遠に存続するものであり、私たちは時を越えて、永遠に存続する神さまに、また永遠に存続する者へと移された人々に出会うことができるのです。
目に見えないもの、触れることができないものに心を向けていくことをしながら、それぞれの残された人生の歩みが、天に召されるまでずっと、日々新たにされる歩みとなるよう、祈る者でありたいと思います。

    2020年11月1日 聖徒の日 召天者記念礼拝 降誕前第8主日 平島禎子牧師

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