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「多様性」 コリントの信徒への手紙一12章12~31節

 ダイバーシティ&インクルージョンという言葉があります。これは、単に異なる背景を持つ人々を受け入れるだけでなく、その多様性を活かし、それぞれの個人が最大限に貢献できる状態を作り出すことを目指すものだそうです。これは、教会の在り方にも似ているのではないかと思わされます。

 8月9日の長崎原爆の日の長崎市長の平和宣言の中で、「世界中の皆さん、私たちは、地球という大きな一つのまちに住む「地球市民」です。(中略) 国境や宗教、人種、性別、世代などの違いを超えて知恵を出し合い、つながり合えば、私たちは思い描く未来を実現することができる。長崎は、そう強く信じています。」と言われていました。同じ地球に住む人たちが多様性があるからこそ、平和を創り出す知恵を出し合うことができ、平和は実現すると長崎は信じていると言われているように思わされました。多様性の豊かさにより平和が実現するようにと願います。

 また、金子みすゞさんの童謡に「わたしと小鳥とすずと」というものがあります。わたしと小鳥とすずはそれぞれ違うけれども違っていて、「みんないい」のだと謡われています。「みんないい」というのが大切なのではないかと思います。

 教会は、イエス・キリストという一つの体に多様な一人一人が連なっている共同体です。個性ある私たちがキリストの体の部分部分であると今日の聖書は教えています。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(18節)と記されています。それぞれの人にふさわしい賜物を神さまは与えてくださっています。そのことを受け入れ、その賜物を生かす部分として、キリストの体を構成していくべきであろうと思います。しかし、体の部位でも見劣りがするところがあると23節に記されています。「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです。」(22節)神さまは、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられたのだと24節の後半に記されています。神さまは迷い出た一匹の羊のように、放蕩息子のように、失われた者、弱き者、小さき者を探し求められる方です。それだからこそ、体の中でも見劣りがすると思われる部分を引き立たせられ、体の一部とされるのです。また、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」(31節)と記されています。マタイによる福音書25章14節以下にタラントンのたとえが記されていますが、預かった1タラントンをそのまま眠らせてはいけないのです。

 私たちの教会が多様性を大切にする教会であり、また、多様性がある故に豊かに成長していくことができる教会となることができますように。一人一人の個性が尊ばれ、一人一人が連帯し、一人一人の苦しみが皆の苦しみとなり、一人一人の喜びが皆の喜びとなる、そのような教会となれるように、またそのような地球市民となれるように、祈る者でありたいと思います。

   2024年8月11日 聖霊降臨節第13主日 平島禎子牧師


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