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「寛 容」 マルコによる福音書9章38~41節

 長い梅雨がようやく明けました。この辺りではあまりニュースになりませんが、四国では毎年のように水が十分に貯水されたかどうか、水不足問題が大きなニュースになっていました。水をめぐって自治体と自治体が対立し、協力ではなく、敵対で終わってしまうことが多かったように記憶しています。それはそれは非寛容な、残念なことでした。

 今日の聖書は、イエスさまがいかに寛容な方だったのかということをよく物語っています。めずらしくヨハネが発言しています。詳細は不明ですが、とにかくイエスさまにほめてもらおうとして、このような発言をしたのだと思われます。しかしイエスさまの答えは”NO”でした。

12人の弟子たちは、イエスさまから「特別に」悪霊を追い出す権能を授けられていると思っていました。そこに特権意識や閉鎖性が生じたかも知れませんが、ルカによる福音書を見ると、あくまでイエスさまのために、イエスさまの権威が守られるためにやったのかも知れません。しかしそれはとんだお門違いだったのです。

 民数記20:29には、同じような状況での、モーセの言葉が記されています。神さまから選ばれ、特別の使命と権能を授けられた存在は、決してそれを自身の特権として自慢したり、唯一無二のものとして誇ったりしないことがここにはよく表されています。後継者ヨシュアが、長老の中の二人が預言状態なので、やめさせてほしいと言ったのに対して、モーセは、主の民すべてが預言者になればよいと切望している、と答えます。真に神の使命に生きている人は、それを特権だなどとは夢にも思わず、むしろすべての人が自分と同じようになればいいと本気で思っているのです。

ここに真の寛容があります。神さまの愛を全身に感じることができたなら、そしてその愛に応えて生きて行こうとするならば、他者はあくまで仲間であり、友であるのです。キリスト教親派の方は、実は大勢おられます。そして一杯の水、どころか多くの尊いものをささげて、支えてくださっている方もおられます。大切なのは、たとえ状況がどんなに厳しくとも、守りに入り過ぎず、閉鎖的にならずに、あくまで信仰をもって、寛容であることだと思います。そしてやがてまた来る喜びの時まで、希望を持ち続け、イエスさまに従う歩みをなしていく者でありたいと思います。

 

2021年7月18日 聖霊降臨節第9主日礼拝 笹井健匡牧師


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