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「満たされるということ」 マルコによる福音書8章1~10節

 今日の聖書の箇所は、いわゆる四千人の給食と言われている話が記されています。イエスさまは、弟子たちに、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(2,3節)と言われました。「かわいそう」という言葉は、原語では、「はらわた、心からの望み、あわれみの心」という名詞からきています。イエスさまは、はらわたがちぎれるような痛みをもって、群衆を憐れまれたのです。弟子たちは、「この人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」(4節)と答えました。弟子たちの答えはもっともなものです。誰がどう考えても、食物がほとんどない状態で、大勢の人を満足させることなどできません。しかし、イエスさまは、はらわたがちぎれるほどの思いをもって、群衆を憐れまれたのです。イエスさまは、弟子たちに、「パンはいくつあるか。」と問われます。すると弟子たちは、「七つあります。」と答えます。イエスさまは、弟子たちの答えを聞かれると、群衆に地面に座るように命じます。そして、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちに渡され、弟子たちは群衆に配りました。感謝していただけるような数ではないように思えても、イエスさまにとっては違ったのです。そして、パン以外にも小さな魚が少しあることがわかりました。七つのパンと少しの小さな魚が配られ、「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。」と8節に記されています。そこにいた人たちは、平等に食事に与り、食べて満腹したのです。その光景は驚きと喜びのあふれるものであったのではないかと思います。

 マザー・テレサが、何日も食事をしていないヒンズーの家族のところに、米をもって訪ねていくと、その母親は、もらった米を二等分にし、半分を隣の家へ持っていったそうです。その家はイスラム教徒の家でした。この母親には、与えられたわずかなものを、自分たちと同じように空腹で過ごしている人たちと分かち合う心があったのです。そこには宗教の壁など関係ありませんでした。わずかなものを分かち合うことによって、心が満たされるということが起こり、そして、肉体的にも満たされるという奇跡が起きたかもしれません。今日の四千人の給食にも、分かち合いの心があり、心が満たされ、そして肉体も満たされるという奇跡が起きたのではないだろうかと思わされました。

 七つのパンと少しの小さな魚を神さまに感謝し、群衆に配られたイエスさまを信じ、私たちも、その配られたパンと魚を隣人と分かち合っていく者でありたいと思います。与えることによって満たされるということを信じて、小さな愛の実践をそれぞれに与えられた場においてなしていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

     2023年9月24日 聖霊降臨節第18主日 平島禎子牧師


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